ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1397話 秀吉を諫めた浅野内匠頭の祖・浅野長政

序文・秀吉と姻戚関係

                               堀口尚次

 

 浅野長政は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。浅野家14代当主。常陸国真壁藩初代藩主。長政は晩年の改名で、初名の長吉を名乗っていた時期が長い。

 尾張国春日井郡北野〈現北名古屋市〉に宮後城主・安井重継の子として生まれる。織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・ややの婿養子として浅野家に迎えられ、のちに家督を相続した。同じく長勝の養女となっていたねね〈寧々、のちの北政所高台院〉が木下藤吉郎〈後の豊臣秀吉〉に嫁いだことから、長吉は秀吉に最も近い姻戚舅を同じくする義理の相婿として、信長の命で秀吉の与力となる天正元年、浅井長政攻めで活躍し、秀吉が小谷城主となると近江国内に120石を与えられた。

 秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下〈秀吉〉のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」とも述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長吉は平然と「私の首など何十回刎(は)ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が〈大軍を率いて〉渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという〈『常山紀談』〉。

 長男の幸長は、和歌山藩の初代藩主となり、慶長18年、幸長の死後嗣子が無かったため、長政の次男で備中国足守藩主であった弟・長


晟(ながあきら)が家督を相続し、元和5年に安芸国広島藩に加増転封となり、幕末まで存続した〈安芸浅野家〉。明治には侯爵となる。

 三男の長重は、長政の隠居料を相続して真壁藩主となり、子の長直の代に播磨国赤穂藩に転封となる赤穂浅野家。長重の曾孫赤穂事件で有名な浅野内匠頭長矩であり、事件後に赤穂藩は除封となる。弟の浅野大学〈長広〉家は500石に減封されて続いたが、昭和に後継者が無く断絶した。また、長政の従兄弟に忠吉がおり、三原浅野家〈家老・三原陣屋〉の祖となる。

 現北名古屋市の霊松院に「浅野長政生誕地碑」がある。