序文・戦わずして勝つ
堀口尚次
塚原卜伝(ぼくでん)は、日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島神流〈鹿島古流・鹿島中古流〉に加え、養父祖伝来の天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新當流を開いた。卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)を由来とする。
卜伝は諸国を武者修行したが、その行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせ乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったと伝えられる。
「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により後世に剣聖と謳われ、講談の題材として広く知られた。著名な逸話のひとつで勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、『甲陽軍鑑』に伝わる「無手勝流」がある。
この中で、卜伝は琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑んでくる。彼はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って彼を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、剣士と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せるのだが、水深が足の立つ程になるやいなや、剣士は船を飛び降り島へ急ごうとする。しかし卜伝はそのままなにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまったという。
若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は全くの作り話である。
晩年は郷里で過ごし、『鹿島史』によれば卜伝は元亀2年に死去したとされる。享年83。『天真正伝新当流兵法伝脉』では鹿島沼尾郷田野〈現佐賀県鹿嶋市沼尾〉の松岡則方の家で死去としている。墓は豊郷村須賀塚原〈須賀村、現・鹿嶋市須賀〉の梅香寺にあったとされるが同寺は焼失し、墓のみが現存している。法号を宝険高珍居士。幕末に活躍した山岡鉄舟は卜伝の子孫。伝説上の弟子に足利義輝〈室町幕府将軍〉、今川氏真〈今川義元の子〉がある。

