序文・治水で貢献
堀口尚次
伊奈忠次は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。武蔵小室藩・初代藩主。三河国幡豆郡小島城〈現在の愛知県西尾市小島町)主・伊奈忠家の嫡男に生まれる。永禄6年に父・忠家が三河一向一揆に加わるなどして徳川家康の下を出奔。天正3年の長篠の戦いに陣借りをして従軍して功を立て、ようやく帰参することができた。家康の嫡男・信康の家臣として父と共に付けられたものの、信康が武田氏との内通の罪により自刃させられると再び出奔し、和泉国・堺に在した。
天正10年に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた伊賀越えに小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父・忠家の旧領・小島を与えられた。家康が江戸に移封された後は関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献した。慶長15年、61歳で死去、遺領と代官職は嫡男の忠政が継いだ。大正元年、正五位を追贈された。
関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。また、伊奈町大字小室字丸山に伊奈氏屋敷跡がある。
諸国からの水運を計り、治水を行い、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたので「神様・仏様・伊奈様」と農民に敬われていたという。伊奈忠次に因み埼玉県・中東部の自治体を「伊奈町」と命名。次男・忠治に因み茨城県筑波郡伊奈町と命名していて、親子2代が町名由来である。伊奈町音頭は「ハァ〜伊奈の殿様忠次公の〈ヤサヨイヤサ〉」と歌い出される。
尾張国と美濃国の境の木曽川は、昔は鵜沼川・広野川・境川・尾張川などと呼ばれていた。木曽川と呼ばれるようになったのは、その流路を大きく変えた、天正以降とみられる。木曽川は度々氾濫し、尾張の人々を苦しめていた。そこで、徳川家康に建策し、これに堤を造ったのが伊奈忠次である。慶長14年、伊奈は御囲堤(おかこいづつみ)と呼ばれる約50kmの連続堤を築き、これによって治水を行った。