ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1425話 自刃した信長の弟・織田彦七郎信興

序文・長嶋一向一揆との戦い

                               堀口尚次

 

 織田信興(のぶおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。織田信秀の7男で織田信長の弟。通称・彦七郎。

 兄・織田信長に早くから従う。永禄8年、信長の命で滝川一益と共に出兵し、弥富服部党の当主・服部友貞不在の時を狙って攻め立て勝利する。鯏浦(うぐいすうら)城・小木江(こきえ)城〈古木江城。現在の愛西市〉を築き、以後は小木江城に在城し、服部党と西に控える長島を牽制する役目を担った。

 元亀元年、信長が石山本願寺などの信長包囲網にさらされると、信興の小木江城も尾張・伊勢長島一向一揆衆によって囲まれた。このとき、信長は浅井長政朝倉義景らと比叡山で対峙し、近隣の桑名城にいた滝川一益一揆勢の侵攻により籠城していたため、援軍を送ることができなかった。信興は孤立無援の中で奮戦し、6日間耐えたが落城し、信興天守別伝には城外に撃って出た、ともで自害した、と伝わる〈『織田家雑録』〉。「長島より一揆蜂起せしめ、取りかかり、日を追って攻め申し候、すでに城内へ攻め込みしなり、一揆の手にかかり候ては御無念と思食し、御天主へ御上り候て、霜月廿一日、織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり」〈『信長公記』〉。なお、この時80人余りの家臣も信興に殉じている。

 信頼の厚い弟・信興を殺された信長の一揆衆に対する憎悪は高まり、これが天正2年の長島一向一揆衆の大虐殺にまでつながった

 鯏浦城は、このあたりに勢力のあった服部友貞の率いる服部党・一向門徒勢を攻めるため、永禄8年に織田信長が築いた城である。城主は織田彦七郎信興織田信長の弟〉であった。元亀元年、服部党が信興を小木江城〈旧立田村〉に攻め殺したことを機に、信長は攻勢を強め、3度目の天正2年には大軍を送り込んでことごとく焼き尽くしたという。

 古木江城は、尾張国海西郡〈現在の愛知県愛西市〉にあった日本の城〈平城〉。小木江城とも書かれる。永禄年間に織田信長の4番目の弟・織田彦七郎信興によって築かれたとされる城で、伊勢長島の一向宗の抑えとして置かれた。古木江城は落城、『信長公記』によれば信興は櫓に上って自害したとされるが、地元では城外で討たれたと伝わっている。その後、城は廃城となった。