序文・事実上の最高権力者
堀口尚次
細川政元は、室町時代後期から戦国時代初期の武将、守護大名。室町幕府24、26、27、28代管領。摂津国・丹波国・土佐国・讃岐国守護〈一時的に近江国守護も〉。細川氏宗家〈京兆(けいちょう)家〉12代当主。養子に澄之、澄元、高国がいる。
日野富子や伊勢貞宗らとともに10代将軍・足利義材を追放して、11代将軍・義澄を擁立し〈明応の政変〉、管領として幕政を牛耳り〈京兆専制〉、比叡山焼き討ちを行ったり、畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き、当時日本での最大勢力に広げた。政元は幕府の実権を掌握し、事実上の最高権力者になり、「半将軍」とも呼ばれた。
だが、3人の養子を迎えたことで家督争いが生じ、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された〈永正の錯乱〉。応仁の乱の混乱の後、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。修験道に没頭して女性を近づけず、独身を貫いたため、実子はいなかった。
政元は修験道に凝って、その女人禁制〈不犯〉の戒めを厳守していたため、女性を近づけることなく生涯独身を通した。空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行に熱中し「空中に立った」「超常的言語を発した」など様々な不思議を現したと噂されたり、突然諸国放浪の旅に出てしまうなどの奇行がある。
ただし、政元は修験道を単に趣味としてだけでなく、修験者の山伏たちを諜報員のように使い、各地の情報や動向を探るなどの手段ともしており、遠くの情報をいち早く得るため山の狼煙の中継地点整備などもしていた。なお、中世当時の大名や武将たちにも広まっていた衆道〈男色〉は政元も嗜(たしな)んだようであり、家臣の薬師寺元一とその関係にあったとする見方もある。
また、当時の武家においても一般教養であった和歌では、政元は鳥に関する句ばかりを集めており、空を飛ぶものに興味を持っていた。天狗の扮装をしたり高所に上ることもあったという。