序文・郷民に河和城を落とされた
堀口尚次
近世、河和村を在所とした給人水野氏は、三州田原の戸田氏に始まり緒川・刈谷の水野氏の系譜につながると言える。十四世紀の中ごろ三河守護の一色氏が知多半島へ進出実権を握る。しかし、一色氏の支配も文明の乱の頃になると、一族たちが戦う羽目となり自滅する。そして一色氏に代わって知多半島を支配したのが、一色氏の被官であった佐治氏と田原城主の戸田氏であった。佐治氏は大野・内海を拠点に知多半島の西海岸の支配権を握り、戸田氏は半島の河和・富貴を領有し先端の師崎を佐治氏と共有して、三河湾の制海権を握った。
この佐治・戸田両氏を脅かしたのは緒川の水野氏である。水野氏は、緒川に城を築き刈谷にも進出していたが、信元〈徳川家康の生母・於大の方の兄〉の代になると織田氏と手を結び、知多半島を破竹の勢いで南進して佐治・戸田氏と戦った。勢いに押された戸田氏は、戦いに敗れ富貴・布土・北方を失い半島における戸田氏の勢力が危機に瀕した。
そのころ(天文十六年)本家たる田原の戸田氏は、岡崎の松平氏から駿河の今川義元のもとへ人質として送られる竹千代(家康)を強奪するという事件を起こした。その結果、田原の戸田氏は、今川氏に攻め滅ぼされてしまう。そこで、知多半島の戸田氏は信元と講和を結んで河和を残すことを図る。ここに河和城主戸田孫八郎守光は、信元の娘妙源を妻にめとり婿となって水野氏の一族に連なった。ほどなく、戸田孫八郎は天正十八年(1590年)秀吉の小田原攻めに加わり陣中で討ち死にする。ところが、この知らせを聞いた河和の郷民は、なぜか大いに乱れて城を破壊してしまう。
このため孫八郎の嫡子万千代(光康)は、一時野間大坊に身を潜めた後、河和の地を逃れ母とともに江戸表へ赴き伝通院(家康の母於大)のもとで成長する。慶長二年(1597年)には、家康の意向で外祖父水野信元の名跡を継ぎ、水野万千代となり武蔵国で七〇〇石を給付される。 その後、母妙源尼は万千代に旧領の内、恩のある河和の地を下し置かれるよう家康に度々願い出る。家康は万千代が河和の民に追い出されたいきさつを考慮して三州刈谷を与えると勧めたが、妙源尼は敢えて河和を望み家康は、これを聞き届け河和の郷一四六〇石を給付される。こうして、水野惣右衛門光康は河和へ帰りその地頭となった。
※美浜町ホームページより