序文・外交政策
堀口尚次
水野忠政は、戦国時代の武将、戦国大名。水野家当主。通称は藤七郎、右衛門大夫、下野守。緒川城および刈谷城の城主。徳川家康の生母・於大の方〈伝通院〉は娘で、外祖父にあたる。
明応2年、水野清忠の次男として生まれる。幼名は牛息丸。初名は妙茂。はじめ尾張国の緒川城〈愛知県東浦町〉を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年、三河国刈谷に新城〈刈谷城〉を築いた。織田信秀〈信長の父〉の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠〈家康の父〉、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。
天文12年7月12日、死去。享年51。墓所は愛知県東浦町の乾坤院。法名は長江院殿大渓堅雄大居士。
水野忠政と松平広忠の婚姻同盟について、松平家の実権を握っていた広忠の叔父信孝主導の外交政策によるものとする見解が出されている。
水野家広は、通説では妻の実家である水野氏が、今川氏から離反し織田氏に接近すると、主君の松平広忠と同様に妻を離縁したとされてきた。だが、於丈の方との子である家忠の誕生が、広忠の離縁よりも後の出来事であることから、水野氏との関係を維持して同氏や松平信孝と結んで広忠に叛旗を翻していた可能性がある。また、天文16年には今川義元が形原を奥平貞友に与えており、織田方に属して広忠と対立していた家広が今川氏に形原を追われた可能性を示唆している。もっとも、弘治年間には家広は形原に復帰して今川氏に従っている。
【私見】「西の織田」と「東の今川」に挟まれた、水野〈知多半島〉と松平〈三河〉は、離合集散を繰り返し、その手段として政略結婚を駆使していた。下剋上の世とはいえ、血縁がもたらす信頼関係は重要な要素であったにちがいないが、姫たちを慮ると、いかほどの葛藤があったものか察するに余りある。