序文・袂を分かちた二人
堀口尚次
明治11年5月14日、馬車で皇居へ向かっていた。大久保はその時、亡き西郷隆盛の生前の頃の手紙を読んでいたとされている。その途中、紀尾井坂付近の清水谷〈東京都千代田区紀尾井町〉にて6人の不平士族に殺害された〈紀尾井町事件〉。享年49〈数え年〉、満47歳没。墓所は東京都港区の青山霊園にある。この事件は紀尾井町清水谷で起きたにもかかわらず「紀尾井坂の変」と呼ばれている。
西南戦争の時には、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できるとし、また西郷については、これでは私学校党に同意せず「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送っている〈明治10年2月7日付書簡〉。一方で、「あの男のことだから進退去就には困っているだろう」として、勅使を立てて明治天皇の意向を伝えて挙兵を防ごうとし、その意向を受けて西郷の縁戚の川村純義が会見を試みたが、実現しなかった。周囲の者達が西郷が乱に与するに違いないと伝えても、大久保は最後まで西郷の不参加を信じて疑わなかったが、西郷が反乱軍を率いて鹿児島を出立したという確報や証拠を突きつけられ、「そうであったか」と言って涙を流した。大久保は西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対されたため、希望は叶わなかった。
西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた〈この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いた〉。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んだりもしていた。また暗殺された時には、生前の西郷から送られた手紙を持っていたとされる。