序文・士族安泰のために大久保利通が考えた
堀口尚次
8世紀に石背国(いわせのくに)が設置された際には方八町に国府が置かれたという説がある。 ちなみに当時の古代律令制度の下で、郡の官人〈郡司(こおりのつかさ)〉が政務を執った役所のことを郡衙(ぐんが)と言うが、「郡山」という現在の地名は、この郡衙が当地に置かれていたことに由来する。
豊臣政権下の上杉氏を経て江戸時代になると、二本松城に織田系大名であった丹羽氏が入封し、郡山は城下以外では本宮と並ぶ数少ない町であった。 江戸時代末期に奥州街道の宿場町〈郡山宿〉となり、人々が集い始めた郡山であったが、当時の人口はおよそ5,000人に過ぎず、周辺は農家のための秣(まぐさ)場や荒れた原野が広がる、「安積(あさか)三万石」の地であった。しかし、この原野が開墾に向いていると明治政府が注目し、明治10年ごろから、明治政府の国費による開発事業の第一号として郡山が選ばれた。これが世に言う「安積開拓」である。
明治政府の士族授産と殖産興業の方針のもと決まった国営安積開拓事業は、もともと水利が悪かったこの地に、山を越えて猪苗代湖から疏水を開削して原野を開発し、封建制度の廃止により職を失った失業士族を入植させようというものであった。安積疏水(そすい)の開削の決定を機に、当時約5,000人のまちの周辺に、9藩から約500戸、約2,000人の入植者がやってきた。第一陣として旧久留米藩の士族が入植し、これを機に岡山、土佐、鳥取、二本松、棚倉、会津、松山、米沢の各藩から人々が集まった。
明治政府が郡山開拓にここまで力を注いだ背景には、戊辰戦争で明治政府に敵対した会津藩の本拠地である会津若松を危険視していたため、会津若松を監視して衰退させるために近隣に会津若松より大きな都市を作って、旧会津藩と関係の無い西日本各地から多くの旧武士を移住させたと言われる。そのため、東北本線の前身である日本鉄道が建設された際も、会津若松を無視して郡山を経由するルートで建設された。
明治維新の最中、各地で士族の反乱が起こり、その対策として東北地方において安積原野開拓が脚光を浴びるようになる。明治11年4月には、大久保利通内務卿は地方官会議に安積開拓の計画を提案したが、その翌月には暗殺されてしまう。その後、農業水利として行われた安積疏水と安積開拓により郡山は肥沃な大地に生まれ変わった。