ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1439話 家康と多羅尾光俊

序文・甲賀忍者

                               堀口尚次

 

 多羅尾(たらお)光俊(みつとし)は、戦国時代から安土桃山時代近江国の武将。

 近江国甲賀郡信楽荘小川の国人・多羅尾光吉の子。母親は若江三人衆の1人である池田教正の娘であるとされるが、教正の活動が初めて確認できるのは光俊が生まれた永正11年から約50年下った永禄年間前後であり、時代が矛盾している。なお、教正の娘の1人は若江三人衆の1人である多羅尾綱知の子・光信に嫁いでいる。文正元年8月に信楽荘から上洛した多羅尾四郎兵衛嗣光と同じ「四郎兵衛」を名乗っていることから、その末裔であると考えられる。

 当初は織田信長に属していたが、。天正10年に本能寺の変が起こり、堺にいた徳川家康が帰国を試みた際、五男・山口光広家康と同行していた長谷川秀一誼(よしみ)があったため、光広の連絡を受けてこれを援護することを決め、嫡男・光太とともに信楽領へと一行を招き入れた。家康伊賀越えには子の光雅や光広らに甲賀衆を付け、伊勢白子まで道中警固させた天正12年、この伊賀越えの際の功労から山城・近江国内に所領を与えられた。この伊賀越えは、河内・山城を経由していることから、多羅尾綱知・光信親子の後援があった可能性が指摘されている。

 その後は豊臣秀吉に仕え、豊臣秀次に於萬の前を側室として送り込むなどして信楽・近江諸領・伊賀・山城・大和に計8万石の所領を有したが、秀次の失脚に連座して改易となり、信楽に蟄居した。慶長14年、死去。

私見徳川家康と因縁のある、鵜殿長照の居城・上之郷城の「むかしばなし」に興味深い話しがある。桶狭間の戦いの後、今川氏からの独立と三河の平定に乗り出した松平元康〈後の徳川家康〉は、東三河〈現在の蒲郡地区〉に勢力を持つ鵜殿長照の上之郷城を甲賀忍者をつかって堕とした話しは有名な史実だが、「むかしばなし」によると、「甲賀忍者多羅尾四郎兵衛が上之郷城に忍び込んで火を放った」とあるのだ。数年前のNHK大河ドラマ「どうする家康」でも、上之郷城を忍者を使い攻略する場面が描かれていた。ただしこちらの忍者は伊賀忍者服部半蔵であった。