序文・梶原景季の愛馬
堀口尚次
磨墨塚(するすみつか)とは、梶原景季(かげすえ)の愛馬の墓とされている塚である。日本各地に存在する。
梶原景季は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。梶原景時の嫡男。梶原源太景季とも。源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱で活躍。武勇と教養に優れており、父とともに鎌倉幕府の有力御家人となるが、頼朝の死後に没落して滅ぼされた。
磨墨は梶原景季の愛馬であり名馬として知られた。磨墨に乗った景季は、寿永3年の宇治川の戦いで、やはり名馬の誉れ高い池月に乗る佐々木高綱と先陣を争った〈宇治川の先陣争い〉。磨墨を葬った場所と称する所は日本各地にあり、磨墨塚と称する。
愛知県犬山市にも磨墨塚が残っている。梶原景時とその一族郎党が討ち死にした後、景時の次男梶原景高の遺児豊丸が乳母に伴われ、残った郎党らと現在の犬山市羽黒の地に落ちのび、羽黒城を築いてこの地に拠ったという。磨墨もこの地で没したと伝えられ、その墓とされる塚が残る。現在は磨墨塚史跡公園として整備されている。
羽黒城は、尾張国丹羽郡羽黒〈現愛知県犬山市羽黒字城屋敷〉にあった日本の城〈平城〉。源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣・梶原景時の孫、梶原景親によって築かれた城である。梶原氏代々の居城として羽黒の地を統治していたが、織田信長に仕えた梶原景久〈景義〉が「本能寺の変」で明智光秀と戦い討死し、梶原氏の滅亡にともない廃城となった。その後、天正12年に起きた小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉方の砦として修復され、山内一豊、堀尾吉晴が守ったという記録が残る。現在、城址には梶原氏の菩提寺である興禅寺がある。