序文・影のブレーン
堀口尚次
豊臣秀長または羽柴秀長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
天文9年、竹阿弥の子〈一説には木下弥右衛門の子〉、豊臣秀吉の異父弟〈一説に同父弟〉として尾張国愛知郡中村〈現・名古屋市中村区〉に生まれる。なお、『多聞院日記』には秀長の享年を「五十一」と記載しており、著者の英俊が秀長の領国である大和国にある興福寺多聞院の僧侶であることから、一時は同日記に記載された享年からの逆算によって天文10年生まれではないかとする見方も浮上した。ところが、秀長が病死する前年の天正18年10月付で秀長の病気平癒を願って作成された都状が奈良国立博物館に所蔵されていることが指摘され、そこには「五十一」と明記されている。翌年正月に病死する直前に秀長は52歳になっている筈なので、そこから逆算すると従来の通説である天文9年生まれが正しいということになる。
豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。
最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。
秀長は温厚な性格で、秀吉を補佐し、彼の偉業達成に貢献した。また寛仁大度(かんじんたいど)の人物で、よく秀吉の欠点を補った。そのため諸大名は秀長に秀吉へのとりなしを頼み、多くの者がその地位を守ることが出来た。 寺社の多い大和を治めたが、大きな諍いもなかったことから実務能力も高かったと思われ、もし寿命が長ければ、豊臣の天下を永く継続させることができたかもしれないと評価されている。
一方で、奈良市中に対して「ならかし〈奈良貸し〉」と呼ばれる強引な高利貸行為が秀長主導で行われ、秀長死後も豊臣政権が横浜一庵ら秀長旧臣を介して継続させていることが判明している。秀長の死後に大和郡山城に残されていたという金銀もこうした行為の結果によるものであった可能性がある。