ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1457話 国宝彦根城の原点・幻の坂本城

序文・三階建ての国宝彦根城の秘密

                               堀口尚次

 

 坂本城は、近江国滋賀郡坂本〈滋賀県大津市下阪本〉にあった日本の城。明智光秀の居城として築かれ、琵琶湖に面する平城。遺構は市街地化によりほぼ消滅している。

 天正10年6月2日、光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二条新御所を攻城し、信長の嫡男・信忠を自害させた〈本能寺の変〉。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。一方、安土城の城主となっていた明智秀満〈光秀の重臣〉は山崎の戦いでの敗戦を13日の夜に知り、14日未明、安土城から坂本城に移ってきたが、羽柴秀吉方の堀秀政が城を囲む中、6月14日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺し、自分は腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる〈『川角太閤記』〉。

 その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し坂本城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主となった。この時に城下町が形成されたと思われている。

 天正14年、秀吉の命を受けた長政が大津城を築城して居城を移したことにより坂本城廃城になり、石垣等の資材は大津城築城に使用された為、遺構はほとんど残っていない。

 彦根藩主となった井伊直政の嫡男・井伊直勝は、彦根城を築くにあたり、大津城佐和山城はじめ近江国の諸城を移転や破却し、城の建設物に利用したとされる。

 大津城は戦後に廃城となり、天守などが膳所城や彦根城に移築されたと伝えられる。彦根城天守がかつての大津城天守の用材を転用して建てられている可能性が、昭和32年に行われた彦根城天守解体修理の際に符号、墨書きが見つかったことを根拠に示されている。これにより大津城天守は望楼型の4重5階であったと考えられている

私見】筆者は今年5月に彦根城を訪れ、お堀の屋形船に乗船し以下の説明を受けた。『現在の彦根城は、元は明智光秀坂本城が大津城に転用され、さらに彦根城へ転用されたもの。大津城の三階から上の部分だけが移築された。』