序文・光明寺の和尚が授けた
堀口尚次
1568年山田半兵衛〈織田家臣〉が入城するが、1569年廃城される。
光明寺城のすぐそばにある安照院光明寺は白鳳年間に建立された、1300年以上の古刹である。
この地に伝わる伝説によると、桶狭間の戦いの後の1563年、織田信長と松平元康〈後の徳川家康〉は攻守同盟を清洲城で締結、この後酒盛り開かれた。織田信長は酔い覚ましにと、松平元康とともに馬を走らせ、光明寺城へ向かった。この城から北にある稲葉山城を見た二人は、「美濃を制する者が天下を制するか」とつぶやいたという。
織田信長は松平元康に、光明寺城の眼下にある安照院光明寺の僧侶、青井意足を紹介した。この青井意足は八幡太郎義家の軍法を伝える人物であり、織田信長もこの軍法を手に入れたかったのだが、織田家が平家の出の為、断られていたのであった。信長は同盟締結の礼として、源氏の出である元康に紹介したのであった。
元康は数日間、光明寺に滞在し、青井意足より八幡太郎義家の軍法を授かった。この軍法を継ぐ者は名前に“義”か“家”を継ぐ事になっており、今川義元からもらった名前を変えたいと考えていた元康は、“元”を“家”に変え、徳川家康を名乗るようになったという。
【追記①】八幡太郎義家とは、源義家のことであり、平安時代中期から後期の武将。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。
【追記②】松平元康は永禄六年に「家康」と改名するが、家康の"家"の字は継父である久松長家より一字を得たものであったが、後年大名に成長した家康を憚(はばか)って長家の方が「俊勝」と改名。さらに、家光以後に徳川将軍家にとり「家」の通字〈諱(いみな)〉が重要となり由来を隠したため、その由来が分からなくなってしまったとする説もある。
※八幡太郎義家