序文・元は今川家の陪々臣
堀口尚次
秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことが出来ていない。生母である大政所は秀吉の晩年まで生存しているが、父親については同時代史料に素性を示すものがない。また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない。
秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子〈『前野家文書』「武功夜話」〉、大工・鍛冶などの技術者集団や行商人であったとする非農業民説、水野氏説、また漂泊民の山(さん)窩(か)出身説、などがあるが、真相は不明である。
はじめ木下藤吉郎と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘〈現在の浜松市中央区頭陀寺町〉にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱〈加兵衛〉に仕え、今川家の陪々臣〈今川氏から見れば家臣の家臣の家臣〉となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した。
なお、その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3,000石を与えられ、天正16年には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。
天文23年ごろから織田信長に小者として仕える。 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していった。また、有名なエピソードとして、信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は秀吉に大いに嘉(よみ)したというものがある。
元亀4年7月20日には、名字を木下から羽柴に改めている〈羽柴秀吉〉。羽柴の由来について、『豊鑑』には柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつ取ったとあるが、『豊鑑』の記述と秀吉が実際に羽柴を名乗った時期が食い違うことなどから、この説には疑問も呈されている。また、弟の長秀〈後の秀長〉が羽柴を名乗るのは、天正3年に入ってからであるため、当初は秀吉1人が羽柴と称していた可能性が高い。