ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1467話 世直し大明神となった佐野政言

序文・田沼意次嫡男刃傷事件

                               堀口尚次

 

 佐野政言(まさこと)は、江戸時代中期の旗本。通称、善左衛門。佐野政豊の子で、目付や江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄〈妻の兄〉。姉に春日広瑞室、小宮山長則室。10人姉弟の末子で一人息子であった。

 天明4年3月24日、江戸城中之間において、退出しようとしていた若年寄田沼意知(おきとも)〈老中・田沼意次の嫡男〉に切りつけ、初太刀で肩口、さらに手と腹部と下腿部を負傷させた。意知は切りつけられたまま逃亡し、暗がりに倒れ込んだため、政言は意知を見失った。政言は大目付・松平対馬守忠郷に取り押さえられ、目付の柳生主膳正久通によって脇差を取り上げられた。その後蘇鉄の間に入れられた後、老中・田沼意次の命令で伝馬町の揚座敷に預けられた。その後大目付・大屋明薫、江戸町奉行・曲淵景漸、目付・山川貞幹による取り調べを受けている。

 意知は手当の遅れもあり、その8日後の4月2日に絶命すると、先例に従って4月3日に政言は揚座敷にて切腹を命じられた。『田沼実秘録』や『佐野田沼始末』には政言切腹の有様が描写されている。当時は切腹と言っても儀礼的なものであり、切腹人が三方の木刀に手をかけたところで介錯人が首を切るというもので、実際に腹を切ることはほとんどなかった。しかし政言は「刃物刃物」と叫び、実際に真剣で腹を切らせるよう要求した。要求通りに刀は三方に載せられたが、政言よりやや遠い位置に置かれた。政言が前かがみになって刀を取ろうとしたところ、首を差し出す形となり、介錯が行われたという。数えの28歳であった。

 幕府の取り調べでは乱心と言うこととなり、意知暗殺の動機は明らかにはならなかった。事件直後から様々な憶測が広まったが、いずれも史料上に裏付けはない。当時のオランダ商館長イサーク・ティチングは何らかの政治的謀略があったという噂が広まっていたとしている。この噂によれば意知暗殺の動機は、意次が様々な改革を行ったことから各方面の恨みを買い、若年の意知がその政策を継承することを恐れたためであるとしている。江戸時代後期に著された作者不明の『営中刃傷記』によれば、政言は暗殺時に懐中に七か条の口上書を持っていたとされ、焼き捨てられたが松平忠郷がこれを密かに写し取っていたとされる。また、在所に十七か条の口上書を残していたともされる。

 市中では田沼の跡継ぎを斬ったことを評価され、世人からは「佐野大明神」、後には「世直し大明神」と呼ばれ崇められた。高止まりだった米の相場は投機筋の売り参入で刑の翌日から下落し財政は逼迫、やがて天明6年の処分を経て田沼意次も失脚する。ただし、佐野切腹直後に米価が下落したのは幕府が天明の大飢饉で苦しむ民衆を救済するために、大坂町人から買持米を6万5000石ほど摘発し、その3分の1にあたる2万8000石が江戸に到着したためであり、佐野のおかげではない。しかも、米価は天明4年春から再度上昇し始めた〈天明8年に意次は死去〉。

 佐野が意知を斬った刀は粟田口忠綱の脇差だったため、忠綱作の刀は急に相場が上昇した。また、佐野に対する同情から、墓所の浅草徳本寺には多くの人々が参詣に訪れ、線香の煙がしばらく絶えなかったという。年が明け改元後の寛政元年に黄表紙『黒白水鏡』〈石部琴好作、北尾政演画〉を出版すると、刃傷事件を表現したとして、版元と絵師が手鎖に処されたうえ、江戸払いと過料を申し付けられた。また浄瑠璃・歌舞伎においては寛政元年の『有職鎌倉山』を皮切りに、刃傷事件を題材とした複数の「田沼騒動物」が上演された。

 政言を取り押さえた松平忠郷は報奨として、上野国新田郡において200石を加増された。一方で若年寄・酒井忠香・太田資愛・米倉昌晴は将軍へのお目通りを停止された。また中之間にいた6人は差控の処分を受け、柳生久通は佐野を取り押さえる際の行動が不手際であったとして御叱りの処分を受けた。さらに当時中之間にいた江戸町奉行・山村良旺、勘定奉行・桑原盛員と久世広民ら九人の旗本と、表坊主らも叱責処分を受けた。