序文・戦時徴用船
堀口尚次
特設艦船とは、民間船を徴用し、海軍所属の艦艇としたものである。正規軍艦の専門化が進んだ、近代以降の海軍において使われる用語である。
近代以前は、主力艦以外の軍艦と民間船との間に構造面における厳然たる差がなかった。このため、有事の際には民間船を武装させ、そのまま軍艦として使用することが多かった。しかし、近代以降は軍艦が構造的に特殊化・専門化したため、民間船をそのまま最前線での任務にあたる艦艇として使用することは難しくなった。それでも、戦時においては一刻でも早く、多くの戦闘艦が必要となるため、既存の民間船〈商船・貨物船・漁船など〉を徴用し、それに改造や武装を施すことによって、最前線以外での戦闘に従事する艦艇に仕立て上げた。これを特設艦船と呼ぶ。
指揮をとるのは海軍士官であり、国際法上も軍艦に該当するが、乗員全員が軍人とは限らず、船体の徴用と同時に船員も徴用されている場合が多かった。その場合、高級船員は士官待遇の軍属となることが通常である。一般船員に関しては、軍と直接契約して指揮下に入り軍属となる場合と、軍と船会社の間の傭船(ようせん)契約に従って派遣されるだけで厳密には軍属といいがたい場合がある。
武装は、戦争初期は小銃のみだった。一説には、目立つ武装を避けることで民間漁船に偽装する意図があったともいわれ、乗員も軍服の着用が避けられたという。しかし、中期には7.7mm機銃と迫撃砲を追加され、後期には25mm対空機銃や13mm単装機銃、さらには電探や若干の爆雷なども装備されるなど重武装化した。それでも、この程度の武装では敵航空機や潜水艦に遭遇してもまともに戦えるはずがなく、多くの特設監視艇が敵発見の無電を発しながら撃沈されていった。
戦時下の日本の船員たちの悲劇をまとめた書籍「日本郵船戦時戦史」の文中には、「まことに弱い運命のもとにおかれた彼らは進んで戦う何ものも与えられておらず、ただ小さな船のなかでじっと死の来るのを待っているばかりであった。〈中略〉敵に会っても、そのなすがままに死なねばならないことは、軍人以上の精神力を必要とした」とある。
太平洋戦争開戦時の特設監視艇数は211隻であったが、407隻まで拡充され、約300隻が喪失した。