ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1480話 四人の主君に仕えた後藤又兵衛

序文・摩利支天の再来

                               堀口尚次

 

 後藤基次は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤又兵衛

 黒田孝高如水仙石秀久黒田長政豊臣秀頼に仕え数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた

 慶長19年、大坂の陣が勃発すると、大野春長の誘いを受け、先駆けて大阪城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。

 黒田家出奔までの主君・黒田長政との不仲説は、後世の憶測によるものであるが、以下のような逸話が理由とされている。慶長の役で長政の営中に虎が出現し馬を噛み殺し暴れまわった。家臣の菅正利が虎に斬りつけ、虎が逆上して正利に襲い掛かろうとしたところを基次が割って入り斬り、正利が虎の眉間に一撃を加えて即死させた。このとき、夜襲かと疑って井楼に昇り、一部始終を見ていた長政は、「一手の大将たる身に大事の役を持ちながら、畜生と勇を争うは不心得である」と二人を叱責した。

 定説では大坂夏の陣で討死したことになっているが、講談軍記が日本各地に広まって読まれ、幾多の戦役を生き延びたという伝説が各地に残っている。『創業録』によると、長宗我部盛親後藤又兵衛が裏切ったと信じていた。生け捕られ二条城に来た時、「後藤は反忠であったに違いない」と言った。傍らにあった人が、「後藤は討死したのだ」と言ったけれども、長曾我部はこれを信じなかった。盛親は殺されるまで、又兵衛の「裏切り」を信じていたらしい。又兵衛が勝手に先行した挙句の敗戦だ。疑いを持ち続けてもおかしくはない。

 戦況判断に優れていた事を示す幾つかの逸話を残している。斥候中に、上流から日本の馬の沓(くつ)が流れてくるのを見つけて既に味方が渡河を開始していると判断。山かげで敵に遭遇した先鋒部隊の鬨(とき)の声が近付いてくるのを聞いて、圧されていると判断。遥か向こうの敵陣の馬煙を見て、近付いてくるなら黒く見えるはずだが、白く薄くなっているので、敵の敗北と判断。いずれも外すことは無かったと言う。