ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1486話 関宿の山車・関の山

序文・日本三関

                               堀口尚次

 

 関宿は、江戸時代の日本の東海道の宿場のひとつ。旧伊勢国鈴鹿郡木崎村・関中町〈関地蔵町〉・新所村、現在の三重県亀山市関町木崎・関町中町・関町新所にある。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、往時の街並みが保たれている。「日本の道100選」にも選定されている。

 東海道五十三次の47番目の宿場である。三重県の北西端、鈴鹿山脈の山裾に位置しており、2005年1月11日の亀山市との合併以前は関町であった。

 古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。東の追分から西の追分までの約1.8キロメートルにわたり、伝統的な町家が200棟以上現存するなど、町並みがよく保存され、重要伝統的建造物群保存地区〈昭和59年〉と日本の道100選〈昭和61年〉に選定されている。

 宿場の名は、愛発(あらち)の関〈越前国〉・不破の関美濃国〉とともに「日本三関」に数えられ、670年頃に軍事上の目的で設置された「鈴鹿の関」に由来する。壬申の乱大海人皇子天武天皇〉が、鈴鹿の関を閉ざしたことは有名である。

 現在に続く関宿の町並みは、天正年間に伊勢国領主で戦国武将であった関盛信が、領内の道路を改修したことに始まり、慶長6年に徳川家康が行った宿駅制度によって、東海道47番目の宿場となってから本格的に整備された。東の追分で伊勢別街道を分岐し、西の追分で大和街道と分かれる立地条件から、旅人の通行も頻繁になり、江戸時代は宿場として大変賑わったといわれる。 天正20年には,御茶屋御殿屋敷屋舗があり、徳川家康の宿所としても使用されたが、寛永年間に廃された。

 「関の山」とは、毎年7月下旬に行われる関宿の夏祭り〈関宿祇園夏まつり〉に出る〈関東で言う山車〉が立派であったことから、「これ以上のものはない」という意味で使われるようになった。また、山車が街道筋の建物の屋根ぎりぎりを通過する様子から、これが目一杯という意味で語源とする説もある