ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1450話 不死鳥・小田氏治

序文・戦いに弱い戦国大名

                               堀口尚次

 

 小田氏治は、戦国時代から安土桃山時代にかけての常陸(ひたち)の武将・戦国大名

 本姓は藤原氏中臣鎌足藤原道兼道長の兄 を祖〉とする他、家系は宇都宮氏の一門・八田知家を祖とする関東の名族小田氏で、関東八屋形の一つ。常陸の大名小田氏15代にして小田氏最後の当主。後に出家して天庵を号す。小田政治の子。小田友治、小田守治の父。室町幕府第12代将軍足利義晴従弟に当たる。娘年齢的に守治の妹結城秀康徳川家康の子の側室がいる

 常陸佐竹義昭・義重父子や下総の結城政勝・晴朝父子、越後の上杉謙信と戦い、相模の北条氏康・氏政父子と手を結んで父祖代々の地の防衛に努めた。30年以上にもおよぶ本城・小田城争奪戦など度重なる合戦でしばしば勝利を収めるも、上杉氏や北条氏の援助が弱まり孤立すると佐竹氏の激しい攻撃に晒された。晩年は豊臣秀吉に所領を没収され大名小田氏は消滅したが、後に結城秀康に仕えた。

 後世にも戦に弱い戦国武将」の代表格として語り継がれているが、居城である小田城を9度奪われるも8度奪い返しているため「常陸の不死鳥」の異名を持つ

 居城・小田城を幾度も敵に奪われ、大名小田氏最後の当主となったため、「戦国最弱の大名」「弱いほうの"おだ"」などと低く評価されることが多い。また「小田城を何度も落城させた名族大名」と揶揄されることもある。しかし永禄7年の山王堂の戦いで上杉謙信に敗れて、小田城を失い多くの将兵が討ち死にするなど、その損失は多大であったにもかかわらず、1年ほどで小田城を奪回している。これは小田氏を守る譜代の家臣団の団結がいかに強固であったかを物語ると同時に、氏治の力量を示すものであった。

 氏治と宿敵関係にあった佐竹義昭上杉謙信に宛てた書状の中で、「氏治は近年弓矢の道は衰えたものの、右大将家〈源頼朝〉以来、名望のある豪家であり、氏治もまた普通に優れた才覚があり、譜代の家人も覚えの者が多く、とにかく家名を保っている」と評価している〈『関八州古戦録』〉。