序文・隠れキリシタンの受難
堀口尚次
濃尾崩れは、江戸時代前期に、尾張国と美濃国で隠れキリシタンが検挙された事件。崩れとは、1つの地域で大勢のキリシタンの存在が発覚し、その信仰組織が崩壊することである。
永禄9年からキリスト教の布教が始まった濃尾地方では、織田信長や織田信忠らの保護を受け、宣教師によってさらに布教が進められた。本能寺の変の後は織田信雄の庇護を受けたが信雄は天正18年に豊臣秀吉に追放される。文禄3年、岐阜の織田秀信が3人の家臣とともにオルガンティノから受洗され、城下に教会堂、病院、孤児院を建てて教化を進めたため、領内に多くのキリシタンが生まれた。しかし、慶長5年の関ヶ原の戦いで西軍方だった秀信は捕らえられ、高野山に送られた。
寛文元年3月、美濃国可児郡の塩村・帷子村に領地を持つ旗本の林権左衛門は、両村でキリシタンが露見したことを尾張藩に報告し、その捕縛を依頼した。これにより24名のキリシタンが捕らえられ、潜伏キリシタンの頭領として尾張国丹羽郡橋爪村の百姓・藤蔵が捕らえられる。その後もキリシタンの検挙は続き、高木村、橋爪村など79ヵ村から摘発された。寛文4年12月、幕府の指示で207人が斬罪。斬首された後の胴体は、藩士諸家の知行高に応じた人数分が試し物として配られ、老中には生きたまま試し物として差し出された。彼らは精進日を除いて3日間で全て処分され、遺体は名古屋の千本松原に大きな穴を掘って投げ捨てられた。同時期に、美濃国笠松の木曽川堤の大臼塚では数10名が磔刑となった。処刑された者の中には武士もいて、「歴々の人もありし由、皆悦んで討たれける由」と記されている。
寛文7年には老中に呼び出された山澄淡路守がキリシタン宗門の徒について詰問されたことをきっかけにキリシタンの殲滅が図られ、乳児14名をふくむ759名が捕えられた。同年12月14日に756人が斬首と磔刑に処され、江戸には405人が牢に残っていると報告した。同年8月から10月の間には牢内にあふれるキリシタンを減らすためとして2000人が足軽以上の藩士に試し物として下された。寛文9年には33人が斬罪となった。
寛文元年から7年までに処分されたキリシタンは1300余人となり、濃尾地域のキリシタンは根絶されたと言われる。
