ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1466話 出家した旗本・鈴木正三

序文・仏教に傾倒

                               堀口尚次

 

 鈴木正三(しょうさん)は、江戸時代初期の曹洞宗の僧・仮名草子作家。元は徳川家に仕えた旗本である。本姓は穂積氏で、三河鈴木氏の一族。通称は九太夫、号は玄々軒、法名正三法名の由来に関しては、俗名の読み方を改めたものとされるが俗名は重三であり、正三は筆名であるとの異説もある。

 天正7年1月10日に三河国加茂郡足助庄〈現在の愛知県豊田市=旧足助町〉にある則定城主・鈴木重次の長男として生まれる。長男ではあるが家を継がず、別に一家を興している。鈴木家は弟の重成が継承した。父の代から徳川家康に従い、初陣は関ヶ原の戦い本多正信隊に参加して徳川秀忠を護衛し、その後の二度の大坂の陣でも武功を挙げて200石の旗本となった。一方で、三河武士であった正三は常に生死を身近に感じ、17歳の時に経典を読んで以降は仏教に傾倒し、職務の間を縫って諸寺院に参詣した

 ところが、元和5年の大坂城番勤務の際、同僚であった儒学者の「仏教は聖人の教えに反する考えで信じるべきではない」との意見に激しく反発し、『盲安杖』を書いてこれに反論し、翌元和6年に42歳で遁世して出家した。旗本の出家は禁止されていたが、主君の秀忠の温情で罰せられず、正三の家も主命により養子の重長を迎え存続が許されている臨済宗の大愚宗築や曹洞宗の万安英種らに参禅した後、故郷三河に戻って石平山恩真寺を創建して執筆活動と布教に努めた。島原の乱後に天草の代官となった弟の重成の要請で天草へ布教し、曹洞宗に限らず諸寺院を復興し、『破切支丹』を執筆して切支丹〈カトリックキリスト教〉の教義を理論的に批判した。日本仏教史においては、江戸時代には宗門改などのいわゆる檀家制度によって「葬式仏教」へと堕落して思想・理論的には衰退したとされているなかで、正三の『破切支丹』は優れた仏教思想書として高く評価されている。

 その武士時代から常に生死について考えてきた正三は、より在家の人々に近い立場で仏教を思索し、特定の宗派に拘らず、念仏などの教義も取り入れ、仁王・不動明王のような厳しく激しい精神で修行する「仁王不動禅」を推奨し、在家の人びとには『萬民徳用』を執筆して、「世法即仏法」を根拠とした「職分仏行説」と呼ばれる職業倫理を重視し、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた。

※天草の代官・重成は正三の弟