序文・稲荷信仰の屋号
堀口尚次
江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場した。徳川発祥の地である、岡崎を中心とした三河地方〈現在の愛知県東部〉は江戸時代、徳川幕府によって唯一、火薬の製造・貯蔵を公式に許可されていた。そのような歴史もあり花火は昔から岡崎を中心とした三河地方に普及発達し、全国に三河花火の名をほしいままにした。
2013年時点で現存する日本で最も古い花火業者は、東京〈当時の江戸〉の宗家花火鍵屋であり、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出した。鍵屋初代弥兵衛は大和国篠原〈吉野郡、後に奈良県五條市〉出身であり、幼少の頃から花火作りに長けていたと言う。1659年、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中に星を入れた玩具花火を売り出した。弥兵衛はその後研究を続けて両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになり、現代に続いている〈2018年時点で15代目〉。
鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は六代目の鍵屋の手代であった清吉が1810年に暖簾分けをして、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりである。「玉」と「鍵」は、どちらも狐が守護する物で、稲荷信仰が盛んだった江戸ならではの屋号名であった。
このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになった。「たーまーやー」「かーぎーやー」というかけ声が生み出された。当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」〈「情」と鍵屋の「錠」をかけている〉という狂歌や「玉屋だと またぬかすわと 鍵屋いい」という川柳が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられる。しかし天保14年、玉屋から失火、店のみならず半町〈約1500坪〉ほどの町並みを焼くという騒動があった。当時、失火は重罪と定められており、また偶然ながら将軍徳川家慶の東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は闕所(けっしょ)〈財産没収〉、市兵衛は江戸お構い〈追放〉となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまった。
