序文・嫡男がいない悲劇
堀口尚次
上杉景虎は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏康の七男。母は遠山康光の妹。初めは北条三郎と名乗ったと推定される。のちに上杉謙信の養子になり、その初名である「景虎」を名乗った。
永禄12年6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻〈駿河侵攻〉に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。しかし、同盟締結において北条氏政が国増丸を手放すのを拒んだため、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪〈上杉景勝の姉〉を三郎に娶らせることが約束される 。
天正6年3月13日、上杉謙信が病死した。その結果、上杉景虎は義兄弟の上杉景勝と家督を巡って対立することとなった。それは上杉家の大きな内紛に発展し、御館の乱となる。天正7年、まだ三国峠の雪が解けぬ前に御館は落城した。景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害した。通説では24歳とされる。嫡男の道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された。孤立無援となった上杉景虎は、実家の北条氏を頼って小田原城に逃れようとした。しかしその途上において鮫ヶ尾城主の堀江宗親の裏切り・謀反に遭い、自害した。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。
乱は景勝の勝利に帰したが、深刻な負の影響を残した。双方の勢力が拮抗した内乱であったため、上杉氏の軍事力の衰退は否定しようがなく、北陸を東進する織田信長などの周辺強豪勢力からの軍事侵攻に苦慮することになる。また恩賞の配分を巡り、景勝方の武将間にも深刻な対立をもたらした。
謙信には実子がおらず、上杉家の家督継承についての謙信の遺志を明示する史料は残されてない。このため江戸時代から、謙信が抱いていた構想として、後継者を景虎または景勝のどちらかとする説、二人とする説、決めていなかったとする説が存在する。
