序文・八百屋の娘から将軍の側室
堀口尚次
桂昌院(けいしょういん)〈寛永4年 - 宝永2年〉は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。通称は玉。
京都の大徳寺付近で産まれる。『徳川実紀』によれば、父は関白・二条光平の家司(けいし)である北小路〈本庄〉太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。
桂昌院と同時代の人物の記録では、朝日重章〈尾張藩士〉の日記『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』に、従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であるという落首〈立札〉があったことが記されており、また戸田茂睡(もすい)〈歌学者〉の『御当代記』に畳屋の娘という説が記されている。黒川道祐の『遠碧軒記』人倫部は二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘とする。
死後やや経ってからの『元正間記』には大根売りの妹、さらに後の時代の『玉輿記』には、父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説が記されている。
しばしば「玉の輿」の語源とされるが、俗説に過ぎないようである。大徳寺塔頭の総見院では、「玉の輿」の玉とは桂昌院のことと語り伝えていた。また、京都の今宮神社の名物〈あぶり餅〉は玉のような餅を食べ、玉〈桂昌院〉のようなご利益をあやかろうとしたという言い伝えがある。
江戸時代のお玉という女性のことだとする説がある。八百屋の娘として産まれたお玉は、三代将軍徳川家光の側室となり、五代将軍となる綱吉を産んだ。綱吉が将軍となった後に、官位は従一位となったが、これは春日局の従二位すら超えており、女性としては最高位である。八百屋の娘が将軍の側室となることによってそのように登りつめたことより、「玉の輿」という言葉と彼女の名前である「お玉」そしてその人生を結び付けて、現在の意味が生まれたとする由来譚である。
玉の輿の玉とは、三代将軍徳川家光に見初められ、京都の西陣の身分の低い八百屋の娘として産まれたお玉が、当時、格も高く由緒もあった西陣の大店である本庄家に養女と出され、江戸まで輿に乗って嫁いだことから、玉の輿という諺が生まれたとされる。現在もそのお玉を養女に入れた本庄家は存在し、本庄家のある京都市上京区芝大宮町の鉾は菊の御紋が入っている。
