序文・領事裁判権
堀口尚次
ノルマントン号事件とは、明治19年に、イギリス船籍の貨物船「ノルマントン」が、紀州沖で座礁沈没した事から始まった紛争事件である。日本人乗客を見殺しにした疑いで船長の責任が問われたものの不問となり船長らによる人種差別的行為と不平等条約による領事裁判権に対する国民的反発が沸き起こった。
明治19年10月24日午後8時ごろ、横浜港から日本人乗客25名と雑貨を載せて神戸港に向かったイギリス貨物船「ノルマントン」〈240トン〉が、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破、座礁沈没した。その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員26名は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護された。ところが、日本人乗客25名は一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死した。
10月28日、松本鼎和歌山県知事からの電報で遭難事件のあらましを知った第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨は、日本人乗客が全員死亡したことに不審をもち、その場の実況調査を命令した。国内世論は、ドレーク船長以下船員の日本人乗客にとった非人道的行為とその行為に根ざす人種差別に沸騰した。たとえば、『東京日日新聞』は、「船長以下20人以上の水夫も助かったのだから、1人や2人の日本人乗客とても助からないはずがない」との憤懣(ふんまん)を記し、「西洋人乗客なら助けたのに日本人なるがゆえに助けなかったのではないか」と論じている。また、事実検証についても不平等条約の壁に阻まれ満足な解決が得られなかったといわれる。
11月1日、神戸駐在在日英国領事のジェームズ・ツループは、領事裁判権にもとづき神戸領事館内管船法衙において海難審判をおこない、11月5日、ツループは、ドレークの「船員は日本人に早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、そのすすめに応じずに船内に籠もって出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った〈ノルマントン号は貨物船なので、日本語が話せる乗客向けのスタッフはいない〉」という陳述を認めて、船長以下全員に無罪判決を下した。この判決を知って日本国民は悲憤慷慨(ひふんこうがい)した。『東京日日新聞』は「いかに日本人は無知だといえ、危にのぞんで、危うきを知らず、助けをえて、助けをかりることを知らないほどの白痴瘋癲(はくちふうてん)であるはずがない」と紙面で抗議した。全国各地から遺族への義捐金が寄せられ、新聞各紙はいっそう硬化して、連日、悲しみの論説と弾劾の記事を掲げた。高名な法学者たちもドレーク船長の告訴をとなえ、在野の政客は各地に演説会をひらいてイギリスの横暴と非人道を責め、民衆に国権回復をうったえた。
社交場鹿鳴館での舞踏会をはじめとする欧化政策によって条約改正交渉を進めていた井上外相も沸騰する国内世論を黙止することができず、11月13日、内海忠勝兵庫県知事に命じてドレーク船長らの神戸出船をおさえ、兵庫県知事名で横浜英国領事裁判所に殺人罪で告訴させた。告訴は翌14日におこなわれた。これに対し、イギリス側は神戸で予審をおこない、ついで横浜に場をうつした。12月8日、横浜領事裁判所判事のニコラス・ハンネンはドレークに有罪判決を下し、禁固刑3か月に処したが、死者への賠償金は支払われなかった。賠償金がなかったのは、損害賠償請求裁判の支援者らが遺族に対し起訴停止の勧告をし、遺族が取り下げたからであった。世論の高まりに関してイギリス公使フランシス・プランケットから日本政府への抗議もあり、また、『時事新報』で早くから事件を報じ義援金運動を率先して盛り立て遺族側を支援してきた福沢諭吉も、再審理により有罪の兆しが見え始めると、日英関係の深刻な悪化が日本に良い結果を生まないという判断から、新聞の論調を急速にトーンダウンさせていた。一時は義援金による難破船引き揚げや欧米各紙への意見広告までが叫ばれたが、遺族に分配されることになった。なお、領事裁判権は本事件の8年後の1894年に撤廃された。
ノルマントン号事件は、領事裁判の不当さを日本人に痛感させた事件として歴史に残るものになった。この事件は、当時胎動しつつあった大同団結運動派によってさかんに取り上げられ、井上外交を「媚態外交」「弱腰外交」と批判し、外交の刷新、条約改正〈不平等条約撤廃〉を要求する動きがさらに強まった。
