堀口尚次
小堀政一は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。伏見奉行、上方郡代と江戸幕府成立期の京都伏見にて、畿内近国支配に重要な役目を果たした。官位は従五位下遠江守(とおとうみのかみ)。茶道の遠州流の祖。
一般には小堀遠州(えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位の受領名の遠江守に由来する通称で後年の名乗り。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。
小堀氏の本姓は藤原氏で、光道の代に近江国坂田郡小堀村〈現・滋賀県長浜市〉に居住して村名を姓として名乗った。光道から6代の後の小堀正次は、縁戚であった浅井氏に仕えていたが、天正元年の浅井氏滅亡後は羽柴秀吉の弟・秀長の家臣となった。
慶長13年には駿府城普請奉行となり、修築の功により、慶長14年、従五位下 遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。
政一の茶の湯は現在では「きれいさび」と称され、遠州流や小堀遠州流として続いている。政一は和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れた。また、秀吉の時代以前に名物とされた茶道具の多くが秘蔵の品として入手困難となっていたため、新たにこれはという茶道具に銘をつけて宣伝し、名物として認知されるようにしていった。その際、彼は和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘を用い、同じようなデザインのものを「○○手」として類型化した上で特定の固体を「本歌」とし、同じ手のものには本歌にちなんだ銘を与えることで、茶道具のデザインを系統立てて把握できるような仕組みを考案した。
小堀遠州は、茶室などの空間設計の一環に七宝細工による色彩や装飾を本格的に取り入れた〈伝承上の〉最初の人物である。
庭園の作風については政一は師である織部の作風を受け継ぎ発展させたとされるが、特徴は庭園に直線を導入したことである。屏風画に残る御所で実施した築地の庭や桂離宮の輿寄の「真の飛石」が小堀好みと伝えられた所以とされるが、種々な形の切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間構成は以前には見られないもので、特に松琴亭前の反りのない石橋は圧巻である。
