序文・多門伝八郎の計らい
堀口尚次
『多門筆記』によれば、切腹の前に浅野内匠頭長矩は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」という辞世を残したとしている。さらに旗本・多門(おかど)伝八郎の取り計らいにより、赤穂浪士・片岡高房〈源五右衛門〉が主君・長矩に最後に一目、目通りできたともしている。
しかし、これはいずれも『多門筆記』にしか見られない記述である。『多門筆記』では、柳沢出羽守とすべきところを美濃守と書いてあったり、仙石伯耆守であるべきところが後の称である丹後守になっていたり、刃傷事件現場について「畳に夥(おびただ)しいほどの血が」というように大げさな記述があったりと、信用できない記述があまりにも多い。「多門筆記は後世の別人の作」という見方はかなり有力である。
この辞世は、春風に吹かれて夜桜が散っているという情景と自らの心境を重ねたものであるが、前日の雨と強風で桜はすでに散ってしまった後の可能性が高い。
さらに『多門筆記』によれば、長矩の切腹場所が一国一城の主にあるまじき庭先であることについて、多門は大目付・庄田安利に抗議したという。しかし庄田は「副使のくせに正使である拙者に異議を唱えるな」とまともに取り合わなかったのだという。例によって多門の自称なので疑わしく見えてくるが、庄田は翌年に高家・大友義孝〈吉良義央の同僚で友人〉や東条冬重〈吉良義央の実弟〉など吉良派の旗本たちと一緒に呼び出され、「勤めがよくない」として解任されてしまっていることから、庄田が吉良寄りと思われるような態度をとったことは間違いないようである。
