序文・家康の腹心
堀口尚次
榊原康政は、室町時代後期から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。通称・小平太。康政流榊原家初代当主。徳川三傑・徳川四天王・徳川十六神将に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。
天文17年、榊原長政の次男として三河国上野郷〈現在の愛知県豊田市上郷町〉に生まれる。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。13歳の時、松平元康〈後の徳川家康〉に見出され、小姓となる。三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。
天正12年、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉〈後の豊臣秀吉〉と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。家康は康政に命じて、小牧山城の大改修を行ったという。この合戦で織田・徳川連合軍は、秀吉の甥・秀次の軍勢を攻撃し、森長可、池田恒興を討ち死にさせるなど奮闘したが、康政は堀秀政に敗れて岩作方面に敗走した。 また江戸時代に成立した『藩翰譜(はんかんふ)』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したというが、こうした事実があったことは確認できず、この逸話は後世の作り話とされる。
檄文の具体的な内容は以下の通り『羽柴秀吉は元々低い身分であり、信長の寵遇を受けて将軍となったが、その恩を忘れ、信孝を殺し、今度は信雄に兵を向けている。このような行為は許されるべきではなく、我が主君・家康は信長の恩に報いるために決起した。 』
家康と秀吉が和平した後、最初の使者として秀吉から康政が指名されたという。康政が上京して秀吉と対面した時、秀吉は「小牧にて立札を立てた私の首を一目見たかろうと思って呼んだが、和睦した今になってみればその方の志はあっぱれである。それを言うためにここに呼んだ。儂(わし)もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の官位を贈ろう。」と言い、祝宴まで開いたという。
一説には家康から水戸に加増転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったのだとも言われる。家康は康政の態度に感銘して、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。
