序文・桶狭間の戦いの前哨戦
堀口尚次
安城合戦は、戦国時代に三河国の安城城付近〈現在の愛知県安城市東部〉で織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年から天文18年までの約10年間に数次にわたって行われた合戦である。
最初の合戦は、織田氏が三河進出を企図したことから発生したものであり、最後の合戦は、今川氏が西三河より織田氏の勢力を駆逐して、代わりに自らの勢力を扶植するため行われた。結果、織田氏は敗北して、三河における織田氏の勢力は著しく減退、尾張と三河の国境付近にある刈谷周辺の一角を保持するのみとなり、織田氏の三河進出は挫折した。一方、今川氏は安城松平領の押領によって勢力基盤確立に成功、一部地区を除く西三河南部地域のほぼすべてが今川領となった。
安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・堀平十郎塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。敵味方合わせて約1000人もの死者が出たと言われてる。
安城合戦後、三河における織田方の勢力は退潮が明らかとなり、さらに尾東や知多郡においても勢力が動揺、三河南部および北部への勢力再拡大の試みも挫かれた。情勢は完全に今川方有利に傾き、織田氏は苦境に立たされた。そして、翌永禄2年、義元は山口教継・山口教吉父子を駿府へ召し出し、これを切腹させた。これにより、山口氏の領地は接収され、鳴海・大高の両城はともに今川氏直属となった。
信長は、今川方の動きに対抗して鳴海城周辺に丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、さらに大高城近傍には丸根砦・鷲津砦を築き、三河方面との連絡を遮断した。このため、鳴海・大高の両城は窮地に陥り、知多郡北部において今川の勢力は封じ込まれた。今川方が、これを救援する為に発生した戦役が桶狭間の戦いであるとも言われている〈鳴海城、大高城は愛知県名古屋市緑区鳴海町と大高町〉。
【私見】過日筆者は、十三塚の内で現存する富士塚・東条塚・千人塚を訪れた。松平広忠〈徳川家康の父〉や織田信秀〈信長の父〉などが壮絶な戦いを繰り広げていたことを目の当たりにし、「桶狭間の戦い」が今川・松平・織田の宿命ともいえる戦いであったことを再認識した。



※筆者撮影