序文・赤穂浪士にあやかり
堀口尚次
山本健一〈1922年 - 2017年〉は、元旧海軍出身の技術者将校で、戦後東洋工業〈現・マツダ〉に入社し、開発リーダーとして世界で初めてロータリーエンジンの実用化に成功した自動車技術者。のち同社代表取締役社長、最高顧問などを務めた。
山本は当時の東洋工業のことを「三輪メーカー」と甘く見て、入社前の面接で「俺の力を活かすのは設計部だ」と配属先を希望したが、その発言は試験官の怒りを買い、入社当初は組立現場職からのスタートで、変速機の組立工場に配属された。ミスを繰り返してはベテラン工員に度々怒られるなど、気持ち的に腐りかけた時期もあったが、広島市内を走る3輪トラックが広島復興に貢献する姿を見て気持ちを入れ替える。その後、組立現場職としての業務終了後や昼休み時間中に図面を見たり写したりして自主的にトレースを始めた。入社から2年経過後に、その努力が社内で認められて設計部門に異動。36歳頃には設計部のエースとなった。
ロータリーエンジン開発までに、ダイハツ・ミゼットのヒットに触発され、対抗車の開発を社長が反対する中、秘密工場を作り試作。結果、K360の発売に結びついた。
昭和37年12月に、第二次技術研修団の一員としてNSUに訪問。当時の社長の松田恒次の意向で、昭和38年3月にロータリーエンジンの開発に専念するように指示。翌4月にロータリーエンジン開発部の部長に就任する。ロータリー開発部隊として47人が集結し、赤穂浪士にあやかり「ロータリー47士」と名乗った。ロータリーエンジン開発の背景には、当時審議されていた通商産業省の自動車業界再編計画で、東洋工業が他社に飲み込まれるかもしれない危機感があった。また、山本が「技術研究所」などロータリーエンジンが付かない名称を望んだが社長の松田恒次は「名称が大事」と突っぱねた。ロータリーエンジンの開発には心血を注ぎ、胃に穴があき、歯が抜け落ちる程、体調に変化があったものの、決して開発を諦める事をしなかった。
1967年5月、バンケル式ロータリーエンジンを実用化し搭載車コスモスポーツを発売。ロータリーエンジンの開発成功に対し、欧米の自動車会社は「広島の奇跡」と呼び、賞賛した。
