序文・実弟の藩
堀口尚次
江戸城無血開城で西郷隆盛と勝海舟の会談は有名だが、その前に幕臣山岡鉄太郎が、徳川慶喜から直々に使者として命じられ官軍の駐留する駿府〈現在の静岡市〉に辿り着き、単身で西郷と面会して交渉、大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となったことはあまり知られていない。
この時に西郷は五つの条件を提示する。『一、江戸城を明け渡す。一、城中の兵を向島に移す。一、兵器をすべて差し出す。一、軍艦をすべて引き渡す。一、将軍慶喜は備前藩にあずける。』であるが、山岡はこのうち最後の条件を拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだが、山岡は、もし島津候〈西郷の薩摩藩の藩主〉が〈将軍慶喜と〉同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする山岡の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、慶喜の身の安全を保証した。こうして江戸無血開城への道が開かれることとなった。
山岡はなぜ「将軍慶喜は備前藩にあずける」のみを拒んだのだろうか?「当時の備前藩〈維新後の岡山藩〉主の池田茂政(もちまさ)は、池田家へ養子に出ていた徳川慶喜の実弟である。私は率直に『実弟の藩であれば安全なのではないか?』と思った。しかしよく調べてみると、兄の徳川慶喜追討の勅命が出され、備前藩も東征軍に参加するように命じられたが、慶喜の弟である茂政は兄を討つための討伐軍に加わらず、朝廷に対して病を理由に隠退・養子届けを出し、家督を鴨方藩主〈備前藩支藩〉であった養嗣子の章政に譲って隠居していたのだ。
インターネット上の情報によると、「身内へのお預け」とは刑罰を意味し、慶喜の命の保証はないとの見解もある。しかも本来の身内〈実弟の前藩主・茂政〉は隠居してしまったし、外様大名家の備前藩に預けること自体に嫌悪感を抱いたのかもしれない。山岡の『主君に対する忠義心』からすれば、この条件だけは絶対に呑めなかったのであろう。
それにしても、この「将軍慶喜は備前藩にあずける」は誰の発案なのだろう?勿論西郷一人で決められたものではない。私の考えでは『主君に対する忠義心』を甘く見た、公家出身の岩倉具視あたりが中心となって策定したのではないだろうか。
