ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1507話 憂さ晴らしの花火を打ち上げた島津久光

序文・廃藩置県で殿様廃止

                               堀口尚次

 

 島津久光は、江戸時代末期の薩摩藩主・島津茂久の実父、明治時代の日本の政治家。位階・勲等・爵位従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・叟松・玩古道人・無志翁と号した。

 島津家第27代当主〈薩摩藩10代藩主〉島津斉興の五男で庶子。はじめ一門の重富島津家の養子に入ってその当主となっていたが、のちに島津宗家に戻り、29代当主〈12代薩摩藩主〉となった長男の茂久を後見人として補佐した。維新後には明治政府の内閣顧問、左大臣に就任。明治4年に玉里島津家を興してその初代当主となり、島津宗家と別に公爵に叙せられた。

 西郷や大久保らが主導するかたちで、同年7月14日に騙し討ちのように廃藩置県が断行されると、これに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例になる。しかし、前述のように既に行政権は下級士族層に握られていたため、この程度の抗議しかできず、後の祭りであった。9月10日に政府から分家するよう命じられ、島津忠義の賞典禄10万石のうち5万石を家禄として分賜される。 明治8年10月22日、左大臣の辞表を提出、27日に許可される。11月2日、麝香間祗候を命じられる。明治9年4月、鹿児島に帰郷する。

 以後、鹿児島で隠居生活を送り、島津家に伝わる史料の蒐集、史書(『通俗国史』等)の著作・編纂に専念する。また、依然として政府による廃刀令等の開化政策に対して反発を続け、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかった

 明治10年2月に西郷隆盛らが蜂起して西南戦争が勃発すると、政府は久光の動向を憂慮して勅使・柳原前光を鹿児島に派遣し上京を促したが、久光太政大臣三条実美への上書において中立の立場にあることを表明、代わりに四男・珍彦、五男・忠欽を京都に派遣する。また戦火を避けるため、桜島に一時避難している。

 こののちも政府は久光の処遇に苦慮し、叙位・叙勲や授爵において最高級で遇した。政府は久光に気を使っていたが、西郷と大久保の死後はそれもなくなった。久光は最後まで「西郷、大久保に騙された」と言い続けたといわれている。