序文・影の将軍
堀口尚次
徳川治(はる)済(さだ)は、江戸時代後期の武士。御三卿の一つである一橋家第2代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫。第11代将軍徳川家斉の実父として権勢を誇り、幕政に隠然たる影響力を持った。
宝暦元年11月6日、徳川宗尹の四男として生まれる。母は細田時義の娘・由加。幼名は豊之助。長兄・松平重昌は寛延2年に、三兄・松平重富は宝暦8年3月21日に、それぞれ越前国福井藩を継いでいた。このため、宝暦8年12月19日、豊之助が一橋家の世子となり、徳川を称する。宝暦12年12月1日に元服、従兄弟である将軍徳川家治より偏諱を賜り治済と名乗り、民部卿となる。明和元年11月11日、従三位左近衛権中将に叙任される。同年閏12月19日、一橋家の家督を継いだ。
田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟・意誠や、甥・意致が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治済は松平定信ら反・田沼派の黒幕として運動し、天明6年、将軍家治が亡くなり、家斉が11代将軍に就任すると、意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。そして当主不在の明屋敷になっていた御三卿田安徳川家には五男の斉匡を新たな当主として送り込んだ。
天明8年に家斉は治済を「大御所」待遇にしようと幕閣に持ちかけるが、当時朝廷で光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしてこれに反対した老中の松平定信と対立する尊号一件が発生していた。その結果、治済の大御所待遇もできなくなり、治済・家斉父子の怒りを買った定信は失脚した。
寛政3年3月5日、権中納言となる。
寛政10年、家斉の子、治済の孫である敦之助が御三卿清水徳川家の新たな当主になったことを皮切りに、治済の二男治国の子である斉朝が寛政12年に御三家尾張藩主になり、さらに家斉の子、治済の孫である斉順は文政7年、御三家紀州藩主となるように、治済の血筋が御三家や御三卿へ行き渡るようになっていった。
