序文・出会の橋
堀口尚次
蜂須賀正勝は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の家祖。
初名は利政。通称は小六もしくは小六郎で、特に前者は広く知られているが、のちに彦右衛門と改名している。官位は従四位下、修理大夫。
講談や『太閤記』『絵本太閤記』『真書太閤記』では、蜂須賀小六は野盗の親分であったとされているが、「墨俣一夜城」のために集められた夜討強盗の野武士集団の番頭の1人というのは、寛永3年以後に刊行された小瀬甫庵〈儒学者・医師・軍学者〉の『太閤記』が秀吉の生い立ちを面白くするために作った話であり、蜂須賀家の子孫は長くその負のイメージに苦しんできた。
羽柴秀吉との出会いについても、浪人時代の秀吉と矢矧川(やはぎかわ)の橋〈矢作橋〉で出会ったという逸話が特に有名で、浮世絵などにも描かれるなど広く信じられてきたが、渡辺世祐〈日本史学者〉が侯爵蜂須賀家の依頼により『蜂須賀小六正勝』を執筆した際に、室町期のどの紀行文を見ても矢矧川には橋がなかったこと、渡し船が用いられていたこと、この逸話が虚伝であることを指摘し、その後、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代中期の元禄年間であり、天正年間には渡し船で渡河していたことが立証された。
桑田忠親〈歴史学者〉は「矢作橋の上で、盗賊の頭領の蜂須賀小六と出会う話は『絵本太閤記』の作り話」とし、小和田〈歴史学者〉はさらに具体的に〈橋での出会いは〉寛政9年に刊行され始めた同作由来の話であるとして、その著者の「武内確斎の創作」であると言っている。
愛知県岡崎市矢作町の矢作川左岸に「出会乃像」があり、以下の説明がある。
【豊臣秀吉は子供の頃、日吉丸という名前で、尾張中村〈現在の名古屋市中村区〉で生まれました。父は織田信秀〈信長の父〉の足軽・弥右衛門という人物で、日吉丸は8歳の時に奉公に出されましたが、12歳で奉公先を飛び出し、実家に帰ることもできずに岡崎の矢作橋で野宿していたのです。その矢作橋に尾張北部で勢力を持っていた野武士で盗賊の統領・蜂須賀小六が通りがかり、矢作橋の隅で野宿していた日吉丸の頭を蹴飛ばしました。日吉丸は怒って小六に言い寄ります。『人の頭を蹴り、お詫びもしないで通ろうとは無礼だろ!謝れ!』すると蜂須賀小六は、『子どもなのに度胸があるではないか。手下にするからその初手柄を見せよ』と日吉丸に言います。日吉丸はうなずき、橋の東にある味噌屋に侵入し、小六たちを味噌屋に引き込みます。しばらくの間、味噌屋を荒らしていた小六達でしたが、味噌屋の人がそれに気づき、小六たちは味噌屋から逃げます。小六たちを逃がすために、日吉丸は味噌屋の連中を引き付けたのですが、自分も逃げなければなりません。そこで日吉丸は良いアイデアが思い浮かびました。味噌屋の井戸の中に大きな石を投げ入れたのです。『ドボン!!』。すると味噌屋の人たちは、泥棒が誤って井戸に落ちたと思い込み、井戸の周辺に集まり、井戸の中を覗き込みました。日吉丸はそのスキに逃げ込み、小六たちに追いつきました。その後、日吉丸は木下藤吉郎秀吉と名を改め、織田信長に仕えます。それから墨俣一夜城築城、稲葉山城〈岐阜城〉攻略と数々の手柄を上げますが、その手柄をサポートしたのが蜂須賀小六正勝を統領とする川並衆だったのです。後に蜂須賀氏は秀吉の配下となり、小六の息子・蜂須賀家政が豊臣政権で阿波国(現在の徳島県)の国主となります。】


※筆者撮影