序文・従四位下の大工
堀口尚次
中井正清〈永禄8年 - 元和5年〉は、江戸時代初期の大工。大和国出身。中井正吉の子。通称は藤右衛門。徳川家康に仕え、幕府の建築事業で活躍した。
中井氏は、本姓は古代史族の巨勢氏である。祖父巨勢正範は万歳城〈大和高田市〉の城主万歳則満に仕えていたが、天文7年に筒井順昭との合戦で討死した。子の正吉と正利は母と共に縁者である法隆寺の四大工の一つ中村家の番匠中村伊太夫に匿われ、そこで大工の技術を学ぶ。その頃に掘った井戸が清水で周囲の人がその井戸を「中井」と呼んだのに伴い中井氏を名乗るようになった。この中井正吉の長男が正清であり、永禄8年に法隆寺で生まれた。
正清が家康に仕える時期は諸説あり、家譜には天正16年24歳の歳に伏見で知行200石で召し抱えられ〈『寛政重修諸家譜』では天正12年とする〉、慶長5年の関ヶ原合戦で家康の供を務めて陣羽織を拝領するとともに500石の加増を受けたとされるが、この間の具体的な事跡は不明である。
確実な事跡は関ヶ原合戦以後で、畿内・近江6ヵ国の大工等の支配を命じられ初代大工頭として、以後は徳川家の建築計画に参画する。慶長11年に大和守従五位下に任じられ、慶長14年には1,000石に加増。慶長18年には禁裏造営を賞して従四位下に昇進した。僧侶・義演の日記には正清の昇進は慶長17年の手斧始めの段階で内定していたとあり、正清が家康のお気に入りとしながらも、前例が無く前代未聞かと記している。正清は家康の出頭人(しゅっとうにん)〈常に将軍や大名の信頼・寵愛を受けて、その近くに出頭・近侍して側近として政務に参画し、権勢を振った者〉として、家康から「関東の番匠は正清の弟子になるべき」「普請に関しては何事も正清次第」と言われるほどに重用された。
慶長19年の大坂の陣にも従軍し、茶臼山陣城殿舎作事〈千波町屋敷を利用〉、攻城用の鉄楯や梯子の製作に携わった。また家康の密命により慶長18年に大坂城の絵図を作成したという逸話があるが、実際には冬の陣勃発後に片桐且元が提出した大坂周辺絵図を見た家康より大坂近辺絵図の作成を命じられた。また豊臣方からの悪口として六本鑓の衆恐ろしと武士以外の家康出頭人の名を挙げ、その中に正清の名もあった。元和5年に近江国水口で死去〈55歳〉。各地の建築に携わるため東西奔走を余儀無くされた結果、幾度も病気療養をしており過労死と見られる。
