ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1544話 新幹線の父・十河信二

序文・政治とカネはオレが引き受ける

                               堀口尚次

 

 十(そ)河(ごう)信二明治17年 - 昭和56年〉は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市長、第4代日本国有鉄道国鉄総裁を務めた。「新幹線の父」と呼ばれた。西条市名誉市民第1号。

 就任後、新幹線研究報告を要請した際、当時の国鉄技師長藤井松太郎が「広軌新幹線を作る金もシステムも国鉄には無い。適当にあしらっておけ。」と答えたため、十河は「技師長にはもっと視野の広い人物に座ってもらいたい。替わってくれ!」と激怒し、技師長の職を辞任させ、常務理事として国鉄の中枢部に異動させた〈ただし国鉄内部での影響力を考慮すると、昇進であるといえる〉。

藤井を辞職させた後には昭和26年の桜木町事故引責辞任し、政治がらみに嫌気が差していた国鉄OBで親子2代国鉄マンの島秀雄を「一緒にお父さんの仇討ちをしよう」と口説き、副総裁格の技師長として復帰させた。この時、十河本人の提案と島の意思により、島の立場は総裁の1つ下、副総裁と同格にしようと企むも、実現には法律〈日本国有鉄道法〉の改正が必要になるため、断念した。島はあくまで「国鉄内部での」副総裁格とすることになった。また、「政治とカネはオレが引き受けるから」と言い、自らは政治的手腕をふるい、島とともに新幹線建設計画を主導・推進した。さらに主要幹線の電化・ディーゼル化〈無煙化〉や複線化を推し進め、オンライン乗車券発売システム「マルス」を導入して座席券販売の効率化を図るなど、当時高度経済成長で大きく伸びていた輸送需要への対応に努めた。このほか、昭和32年には地方の経営自由度を高めるため、新たに支社制度を導入し、本社が持っていた220項目の権限を支社に移管させた。十河の在任期間中国鉄の収支は持ち直し、黒字決算を続けた。昭和34年には、自伝『有法子』〈交通協力会〉を出している。

 昭和39年10月1日、東京駅の東海道新幹線ホームで挙行された出発式には、国鉄十河も島も招待しなかった。十河は自宅のテレビで見守っていたそうだが、当日10時からの国鉄本社での開業記念式典には招かれ、昭和天皇から銀杯を賜っている。しかし、後々に十河や島が「新幹線の父」と呼ばれるに至り、マスコミが彼らを紹介する際には、必ずといっていいほど「国鉄は新幹線の開通式に彼らを招待しなかった」という説明をするようになったため、これは国鉄にとって痛恨事となってしまった。