序文・日本共産党書記長
堀口尚次
徳田球一〈明治27年 - 昭和28年〉は、日本の政治運動家、共産主義者、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員〈3期〉、戦前の非合法政党時代から戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。徳球(とっきゅう)の愛称で知られる。
沖縄県国頭方名護間切〈現:沖縄県名護市〉で、鹿児島の豪商の庶子であった父とウチナーンチュの母の間に生まれる。家は沖縄の中にあっては裕福で、「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。母方の祖母は高利貸しと泥藍(どろあい)売りを営み、徳田もこの稼業を手伝っていたが、強欲な祖母に反発して「お金を借りてはだめだ」と借りに来た者に対して注意するなど、正義感が強い子供であった。
「獄中18年」という経歴から共産党支持者から英雄視され、親しみやすい人柄で「徳球」のニックネームがあった一方、党内で「オヤジ」「徳田天皇」と呼ばれるような家父長的〈親分子分的〉指導体制であったという批判もある。特に、文化運動では、娘婿の西沢隆二の方針を支持し、〈ダンス至上主義〉といわれるほど社交ダンスを運動のなかにもちこんだ〈その実態は徳永直の小説、『静かなる山々』にも描かれている〉。また、宮本百合子は、1949年に、小説家を軽んじる徳田の方針に対する意見書を提出している。ただし、北京への渡航後は国際派への妥協を主張した西沢と対立し、伊藤律の回想によると「おれは長年獄中にいて世間にうといから、西沢にやわらかくほぐすよう助言させてきた。しかし、それはブルジョア思想でおれを毒する危険な協力だった。彼のため、もう一歩で一生を誤るところだった。彼と野坂〈参三〉は同じ思想だ。彼を日本へ帰してしまおう」と絶縁を言明した。しかし西沢の送還は実現しなかった。宮本顕治が党首となり、1966年に中国共産党と袂を分かって「自主独立の党」を標榜するようになった後の日本共産党においては「1950年から1955年にかけて徳田球一と野坂参三の分派がソ連や中国の言いなりとなって武装闘争路線を持ち込もうとしたが、宮本顕治はこれに反対した」「50年問題でソ連など干渉者の指揮のもとに誤った道に踏み込んだのは党中央の一部の幹部、徳田・野坂分派に属するごく少数の者にとどまる」「50年問題を経て党は自主独立の立場を確立した」という立場をとり、徳田球一は否定的に扱われている。
