ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1552話 寝返った山口教継

序文・織田から今川に

                               堀口尚次

 

 山口教継(のりつぐ)は、戦国時代の武将。織田氏、今川氏の家臣。尾張国鳴海城主。山口氏は周防国大内氏の一族と言われる。桜中村城主・山口教房の子として誕生。

 尾張笠寺付近の土豪であったとみられ、永正6年付けの文書で笠寺の笠覆寺に貢納していたことが確認できる。織田信秀に従い、小豆坂の戦いでは当時駿河国遠江国三河国を勢力下に収める大名であった今川義元配下の軍勢と戦って戦功を挙げる。しかし、年次は不明ながら、信秀義元を仲介して両者を一時的に和睦に導いてもいる。信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張南東部の備えとなっていたが、信秀の死後、子の信長の代になると、織田氏から離反して今川氏に寝返り、鳴海城を子・教吉に守らせ、笠寺に砦を構えて岡部元信などの駿河勢を引き入れて、自らは中村に立て籠もった。教吉はここで出陣してきた信長と戦い、引き分けている〈赤塚の戦い〉。赤塚の戦いは、天文21年、尾張国赤塚で起きた戦い。記録上、織田信長が当主となって最初の戦闘である。尾張国内で勢力を拡大していた織田信秀が死去時期については諸説ありし、子の信長が跡を継ぐと、信秀に重用されていた鳴海城主の山口教継駿河今川義元に寝返った教継は子の教吉を鳴海城に置き、笠寺城を修築して今川方の葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏を引き入れると、自らは桜中村城に立て籠もった。天文21年、信長は兵800で那古野城を出陣し、中根村から野並村を駆け抜け小鳴海 に移動し、三の山へ登った。すると、山口教吉が三の山の東、鳴海からは北にある赤塚に1,500の兵で出陣して来た。これを見て信長も赤塚に進軍し、両者は先陣を繰り出して戦闘に突入した。このときの信長の先陣には、父信秀より付けられたいわゆる四家老の一人内藤勝介や、蜂屋頼隆の可能性がある蜂屋般若介の名も含まれている。矢戦の後、槍戦となり、巳の刻より午の刻〈おおよそ午前10時から正午ごろ〉まで乱戦が続けられた。あまりの接近戦のため、首を取り合うこともなかったという。信長側は30騎が討ち死にした。しかし勝敗は付かず、元々は味方同士で顔見知りの間柄だったため、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りになった者も交換して帰陣した。

 教継は織田方の大高城沓掛城を調略を用い奪取したが、その後駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられた。山口父子の殺害は信長の調略ともされる