序文・人間五十年…
堀口尚次
日置神社は、愛知県名古屋市中区橘一丁目にある神社。「日置八幡宮」とも呼ばれる。『延喜式神名帳』の尾張国愛智郡「日置神社」に比定されている式内社。
永禄3年5月19日午後1時、静寂を保っていた織田信長は、早朝に清洲城を出て日置神社に到り、幸若舞『敦盛』を舞って戦勝祈願を行い、軍勢の集結を待って陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという『信長公記』の伝記がある。その後、熱田神宮へ向かったとされ、そこでも戦勝祈願をし、桶狭間の戦いへ出陣した。織田信長は戦勝後、報賽のため日置神社の神域に松樹千本を植えた。これより「千本松日置八幡宮」と呼ばれた。
熱田神宮の大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたが、平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られた。以降は子孫の藤原南家藤原氏・千秋家が大宮司、尾張氏は権宮司を務め続けている。戦国時代、千秋家は武将として織田家に仕え、千秋季光が織田信秀に、季光の子季忠は織田信長に仕えている。信長は桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝を祈願して見事に勝利を収めたが、季忠は前哨戦で討死、信長は大宮司職と遺領を、まだ胎内にいた季忠の子季信に相続させた。
永禄3年5月19日、織田信長とその手勢が桶狭間の戦いに赴く際に熱田神宮に立ち寄り、戦勝祈願を行った。合戦後、信長が勝利した御礼として築いたとされる塀の一部〈築地塀(ついじべい)〉現存し、土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、兵庫西宮神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つとして有名。
【私見】それにしても織田信長は、幸若舞『敦盛』とよほど縁があるようだ。出世戦となった「桶狭間の戦い」の戦勝祈願で舞い、本能寺で明智光秀の謀叛にあった時も、燃え盛る本能寺で舞ったとされるドラマ演出も数多くある。『人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』

