ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1557話 東ドイツの中にあったベルリンの壁

序文・西ドイツと東ドイツの境界ではない

                               堀口尚次

 

 ベルリンの壁は、1961年から1989年までベルリン市内に存在したである。

 第二次世界大戦後、ベルリンとその周辺地域はソビエト連邦ソ連〉に占領されるも、ベルリンは連合国の合意でアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって周辺地域とは別に分割占領され、西側3か国占領地域はソ連占領地域の中に位置する飛地である西ベルリンとなった

 1949年に東西ドイツが分裂して独立し、ソ連占領地区はドイツ民主共和国東ドイツ〉の首都・東ベルリンとなり、西側3か国占領地域は東ドイツの中の飛び地のまま、形式的には米・英・仏の共同占領地ながら、実質的にはドイツ連邦共和国が主権をもって実効的に統治する西ドイツ領・西ベルリンとなった

 冷戦下でドイツは、東西陣営に西ドイツと東ドイツで分裂していたが、往来が自由であった西ベルリンと東ベルリンの境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートの壁を作った。

このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった。そして1989年秋の東欧革命にともなう東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、やがて壁そのものが撤去された。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。

 壁の建設と同時に、西ベルリン市民のおよそ1万人が、東側の別荘や畑へ行くことが不可能となった。彼らはその土地の所有者であり、不動産の所有権の証書は保管していたが、やがてそれらは何の役にも立たない紙くずとなった。 東西ドイツの国境付近で、同じ町、同じ村で東西が分断された自治体は多い。メドラロイトもその一つであり、村の中を国境線が引かれ「リトル・ベルリン」と呼ばれた。

 2009年に行われた世論調査によると、旧西ドイツ出身者が旧東ドイツ復興のため税金が上がったことに、旧東ドイツ出身者たちは旧西ドイツとの所得格差に不満を持ち、7人に1人はベルリンの壁の復活を望んでいるという結果が出た。