序文・将軍追放
堀口尚次
三好政権は、天文18年から永禄11年まで存在した、戦国時代の日本の武家政権である。同時代における他の戦国大名の地方政権とは大きく異なる中央政権であったと言われる。そのため、織田政権に先立つ統一政権の先駆的な存在であると評価されることもある。
三好長慶(ながよし)は、戦国時代の武将で、畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。元は管領・細川晴元の有力家臣であったが、細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍足利義晴・義輝共々晴元を京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は細川氏が支配していた領地を継承・拡充して三好氏の勢力を畿内の大部分にまで広げ、足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び、畿内の支配者として君臨した。
巧みな政治・軍略を展開しながらも下克上の雄ではなく旧来の人物であったと言われる。保守的・優柔不断と言った評価も多い が、こうした長慶の人物像への評価に対して、「戦国時代の常識への無理解に基づく全く妥当ではない評価だ」という反論もある。
長慶は将軍・足利義輝と長年争ったが、長慶の義輝に対する対応は寛容・微温的であったとされる。義輝と細川晴元を合戦で破り近江国朽木へ放逐した折、追撃が困難ではなかったにもかかわらず、長慶は義輝へ執拗な追撃をしようとしなかった。さらにその後5年間、朽木を攻撃した形跡も見られない。義輝が避難した場所は細川晴元の義兄の六角義賢の勢力圏内であり、さらに義輝の妹婿である若狭国の武田義統の勢力圏からも近かったことも影響していると考えられる が、『続応仁後記』は、敵を執拗に追い詰めない長慶の方針ゆえだと記述しており、敵を徹底的に追い詰めない長慶の性格が反映された措置と推定する郷土史家もいる。更には長慶の性格について、「下剋上の標本のように言われるが、自己の権益を主張する以外は、古い伝統、秩序を尊重する律義者である」と評している。
現在では、織田信長の「革新的」なイメージと比較され、旧主・保守的・文弱・柔弱というレッテルを張られてしまっているが、通俗的な見解に対して、「織田信長の先駆者」「信長に先行する斬新な政策を行った」「長慶が果たせなかった『下剋上』を、信長が成就した」 という評価もある。
