序文・祖国分断の悲劇
堀口尚次
日本語詞のついた「イムジン河」のうち、最もよく知られているのが1968年前後にザ・フォーク・クルセダーズが歌ったものである。臨津江〈リムジン江〉で分断された朝鮮半島についての曲で、主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、なぜ南の故郷へ帰れないか、誰が祖国を分断したかを鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。
デビュー曲で大ヒットとなった「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾として、アマチュア時代から歌う「イムジン河」を1968年2月21日に東芝音楽工業から発売する予定であった。東芝の高嶋弘之ディレクターは、フォーク・クルセダーズを「帰って来たヨッパライ」でデビューを説得していた頃はすでに、「第二弾は『イムジン河』で行ける。『ヨッパライ』がこけても『イムジン河』がある」と考え、東芝関係者らはその算段で臨んで発売前にラジオで数回放送した。
「帰って来たヨッパライ」200万枚発売記念パーティーの翌日で発売予定前日の1968年2月20日にレコード会社は「政治的配慮」から発売中止を唐突に決定し、出荷済み13万枚のうち3万枚が未回収となり、以後放送自粛の風潮が広がるも京都放送のディレクター川村輝夫は自粛後もラジオで放送を続けた。
本楽曲は北朝鮮の曲で、松山やメンバーらが思い描いていた「作詞・作曲者不明の朝鮮民謡」ではなく、朴世永の作詞、高宗漢の作曲による楽曲であった。原曲は『主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、1番は臨津江の流れになぜ南の故郷へ帰れないかを嘆き、2番は臨津江の流れに荒れ果てた“南”の地へ花の咲く“北”の様子を伝えてほしい』と、北の優位を誇示している。松山は交流した朝鮮学校の生徒から曲の1番のみしか受け取っていなかったため、1番は辞典をたよりに翻訳し、それを基にしたものの、2番は自身が南北の分断を唱う歌詞で作曲したという。さらに、独自に3番も作詞している。のちに4番の歌詞をきたやまおさむが作詞した。
発売中止は、レコード倫理審査会の国際親善事項に抵触することに加えて、通説として朝鮮総連が内容が南側に偏向していると抗議したことなどが要因と喧伝される。実際には、1968年2月19日に朝鮮総連は東芝音楽工業に対し、これが「『朝鮮民主主義人民共和国』の歌であること」と「作詞作曲者名を明記すること」を求めた、レコード会社は国交のない北朝鮮の正式名を出すことを躊躇して発売を自粛したともいう。当時の新聞に「朝鮮総連が謝罪広告を出すことと原詞に忠実に訳すことを求めた」の記事が散見されるが、高嶋弘之ディレクターの記憶に該当する証言はない。一方、NHKの『アナザー・ストーリーズ』では、朝鮮総連の音楽部長リ・チョルウが、彼自身が作詞作曲者の名がないことについて朝鮮を途上国として軽んじているためではないかと疑い、「作詞作曲者名を明記すること」と「原詞に忠実に訳すこと」を求めたと語っている。これについて、リ自身も本心は発売を望んでいて、当時の自身の行為を「若気の至り」と語っている〈まさか、そのまま発売が止まるとは彼自身も思っていなかったようである〉。
東芝音楽工業の親会社である東芝が、韓国内で家電製品のシェア拡大に悪影響することを恐れたため圧力をかけたという説、国内の反政府運動を助長すると韓国政府から抗議があった説、ほかに内閣情報調査室から上下黒色背広の者が捜索に来たと証言する東芝関係者もいるが、森達也は国際問題が関係していてもありえないし上下黒色背広の証言も漫画チックであると否定している。
発売自粛となった本楽曲の代わりにザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして「悲しくてやりきれない」が発売され、2002年に発売されたシングルCD「イムジン河」のカップリングにも収録されている。同曲は「イムジン河」のコードを反対からつなげて作ったという話も残っているが、音楽理論上から見ると機械的なコード操作では無理なので、逆回転から発想を得てイメージを膨らませた結果と言える。
1998年10月26日放送のNHK『スタジオパークからこんにちは』にて加藤は「某出版社〈パシフィック音楽出版 現・フジパシフィックミュージック〉の会長室に3時間限定で缶詰にされた。最初はいろいろとウイスキーだとかを物色していたが、残りわずかという時間になって、そろそろつくらにゃ、という気持ちで譜面に向かった。イムジン河のメロディを逆に辿っているうちに、新たなメロディがひらめいた、実質的には15分ほどでできた」と証言している。
2003年9月11日に行われた島敏光との対談でも、加藤は同様の証言をしている。但しこちらでは「一時間くらいで曲が出来て…」となっている。

