ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1588話 髪長姫こと藤原宮子

序文・太皇太后

                               堀口尚次

 

 藤原宮子〈684年前後? - 天平勝宝6年〉は、文武天皇の夫人で第45代聖武天皇生母。第46代孝謙天皇〈第48代称徳天皇〉祖母。藤原不比等の長女で、母は賀茂比売。聖武天皇の皇后である異母妹・光明子光明皇后〉とは、義理の親子関係にも当たる。史上初めて生前に正一位に叙された人物であると同時に、史上初めて女性で正一位に叙された人物でもあり、皇后でも皇太后でもなかったが、史上初の太皇太后となった

 梅原猛は、『海人と天皇新潮文庫で、宮子は不比等の養女であり、紀州の海女であったとする説を考証している。「文武天皇が持統太上天皇と共に大宝元年紀伊国牟婁の湯に行幸した時、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのである。

 もともとこの伝説は、室町時代に初演された能『鐘巻』で最初に記録されている。紀州の海女が海から小さな観音像を拾い上げ、その御利益で光り輝く美人となり雲居に召され、その両親への恩返しのために紀州道成寺を建てたとされたが、『鐘巻』に宮子の名は登場しない。江戸時代になると、宮子文武天皇の物語として道成寺等が流布するようになった。近年の発掘調査で、道成寺観世音寺式伽藍の寺であることが確認され、福岡県の太宰府観世音寺宮城県多賀城観音寺で行われたような、日本の東西南北の鎮護を祈る儀礼道成寺でも行われた可能性が示された。藤原宮子道成寺を関連させて語る伝説は、道成寺での観世音寺儀礼を目立たない形で語り継ぐ手段だったと解釈されている。

 道成寺に伝わる伝承によれば宮子は九海士の里〈現在の和歌山県御坊市湯川町下富安〉で生まれたとされており、道成寺および周辺地域には道成寺開創縁起として『宮子姫髪長譚』〈宮子姫物語〉が伝えられている。和歌山県御坊市道成寺および『道成寺絵とき本』にて現在紹介されている伝承の大筋は下記のとおりである。『応神天皇の時代、9人の兵士に日高の浦が下賜された。9人は漁を生業としたため、周辺地域は「九(く)海士(あま)の里」とよばれるようになった。九海士の里に住む夫婦である早鷹と海女の渚は、子宝に恵まれないことから氏神八幡宮にお祈りしたところ、女の子を授かった。そこで名前を八幡宮にちなんで「宮」と名づけた。ところが、成長しても宮には髪の毛が生えてこなかったため両親は悲嘆にくれていた。ある年、九海士の里は不漁に見舞われる。その原因は海底から差す不思議な光であった。宮の母である渚は、「娘に髪の毛が生えないのは前世の報い」と考え、里の人々を救おうと罪滅ぼしのために自ら海に飛び込んだ。海中深く潜っていると、光輝くものがあった。それは黄金色の小さな観音像であった。渚は持ち帰った観音像を大切に祀った。光の消えた海は大漁続きとなったため里人たちは渚のことを尊敬したが、彼女は謙虚に祈りを続けた。ある夜、渚の夢に観音が現れる。夢の中で髪の生えない娘のことを訴えると、にわかに宮の髪が生えはじめた。年頃になると髪も伸び、宮は「髪長姫」と呼ばれるようになった。ある日、宮が黒くて艶のある髪をすいていると、雀が飛んできてその髪を一本くわえ、飛び去った。その雀は、奈良の都で勢力を誇っていた藤原不比等の屋敷の軒に巣をつくった。巣から垂れ下がる長く美しい黒髪を見つけた不比等は髪の主である宮を探しだし、養女に迎え入れた。不比等の養女となった宮は「宮子」という名を授けられ、やがて文武天皇に見初められ后となり、奈良の東大寺を建立した聖武天皇の母となった。

宮子は奈良に行っても故郷の九海士の里が忘れられず、特に残してきた観音のことが気になっていた。その悩みは文武天皇に届き、「宮子に黒い長い髪を授けてくれた観音様をお祀りする寺を造立せよ」と紀道成に勅命を出した。その寺があの道成寺だという。』