序文・真実は闇の中へ
堀口尚次
寺坂信行〈寛文5年 - 延享4年〉は、江戸時代前期の人物。赤穂浪士四十七士の一人。通称は吉右衛門。元禄赤穂事件の生き残りとして知られている。
元禄14年3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んで切腹し、赤穂藩は改易となったが、この際に寺坂は四十七士の一人・吉田兼亮〈通称・忠左衛門〉とともに加東郡におり、ともに赤穂城へ駆け付けた。赤穂城明け渡しを前に家老・大石良雄が同志と血判の義盟を交わしたが、この義盟に、他の藩士と違い、身分の低い足軽だった寺坂は加わっていない。その後、上司の吉田兼亮が播州三木へ退くとこれに従う。寺坂は同志に加えて貰えるよう強く願い、大石良雄は最初は寺坂の身分を考えて躊躇したが、その熱意にほだされて義盟に加えた。寺坂は吉田兼亮に付き従い、足軽の身分ながら同志との会合にも出席している。
元禄15年12月14日の元禄赤穂事件では裏門隊に属していた。しかし、武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとに赤穂浪士一行が泉岳寺へ引き上げたときには寺坂の姿はなかった。討ち入り直前に逃亡したという説、討ち入り後に大石良雄から密命を受けて一行から離れたという説、足軽の身分の者が討ち入りに加わっていることを大石が公儀に憚(はばか)りがあるとして逃したという説があるが、真相は不明である。
延享4年に病死。江戸麻布の曹渓寺に葬られる。戒名は節岩了貞信士。享年83。後年、慶応年間に入ってから泉岳寺の義士墓所に墓塔〈遺骸の埋葬を伴なわない供養墓〉が建てられており、ここでの戒名は遂道退身信士となっている。
寺坂信行は士分ではなく足軽身分である。また寺坂は討ち入り後、泉岳寺に行くまでに姿を消している。そのため、彼を赤穂浪士の一人として加えるべきかどうかが、事件当時から論争の火種になってきた。
後に上司の吉田兼亮も「吉右衛門は不届き者である。二度とその名を聞きたくない」と語り、大石良雄は「軽輩者であり、構う必要はない」と書き残している。一方、伊藤家の資料から四十六士が四家にお預かりになった後、寺坂が浅野長広〈浅野内匠頭の弟・大学〉がいる広島へ行っていることが確認できる。堀部言真〈堀部安兵衛の親戚〉の書簡からも討ち入り後、寺坂が寺井玄渓〈赤穂藩医〉のもとへ行っていることが確認されている。
