序文・悲運は吉良側にもあった
堀口尚次
吉良義周(よしちか)は、江戸時代前期の高家旗本。米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男として生まれ、祖父である吉良義央〈上野介〉の養子となり高家吉良家を継ぐが、元禄15年12月14日の赤穂事件で、赤穂浪士らに義央を討たれて自身も重傷を負う。その後、江戸幕府から事件当日の対応が「仕方不届」であることを理由に改易されて配流先の諏訪藩で21歳にて病死、高家吉良家は断絶した。
赤穂浪士らによる本所吉良邸への討ち入り〈赤穂事件〉があった元禄15年12月14日の際、義周は18歳であった。義周も薙刀(なぎなた)をとって応戦したが、武林隆重に面と背中を斬られてそのまま気絶した。重傷を負った義周は不破正種に薙刀を奪われたが、その場に放置されて殺害されることはなかった。
事件後吉良家は、すぐに家臣の糟谷平馬を使者とし、赤穂浪士による討ち入りの旨を老中・稲葉正通邸に届け出ている〈『検使宛吉良左兵衛口上書』〉。年が明けて元禄16年2月4日、幕府評定所に呼び出された義周は、荒川定昭や先手組猪子一興に付き添われながら、麻布邸を出て評定所に出頭し、大目付仙石久尚より、当日の対応に際する義周の「仕方不届(ふとどき)」を理由に吉良家は改易の上、義周は信濃国諏訪藩藩主諏訪忠虎の国元での預け処分が申し渡された。幕府は、義央は刃傷事件の際「内匠〈浅野長矩〉に対し卑怯の至り」で、赤穂浪士討ち入りの時にも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁(のが)れ難い」と断じているが、これは赤穂浪士の討ち入りを踏まえて、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった義央の処分を実質的に訂正したものであった。
予め預人(あずけにん)を渡される際の指図を幕府から受けていた諏訪藩は、前もって評定所前に藩士を派遣しており、義周の身柄は徒目付により引き立てられ、諏訪藩士に引き渡された。義周は網の掛けられた乗り物〈罪人用の籠〉に乗せられて、本所にあった諏訪藩邸へ移送された。
諏訪藩内では吉良義周や家臣二名の居場所について緘口令が敷かれ、吉良義央や上杉家の批評も禁じられた。一方で高い身分であった義周は「左兵衛様」と敬称されていた。たばこや衣類、蚊帳は許されたが、通信はすべて検閲された。自殺を防ぐ目的から、義周の前へ出る者は扇や小刀も番所へ預けさせられた。義周は配所で絵や書を良くしたが、元来病弱であり、しばしば病気になった。宝永3年に危篤に陥り翌日死去。享年21。赤穂浪士の名声の影に泣く被害者の悲哀が残る。
