序文・何の因果か
堀口尚次
脇坂安照は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩の第2代藩主。龍野藩脇坂家4代。官位は従五位下・淡路守。元禄14年、江戸城中で浅野長矩が吉良義央に斬りつける赤穂事件が発生すると、この事件の処理に際し、赤穂藩の隣接藩の藩主である安照は浅野家の居城である赤穂城受け取りの正使を務めている。またその後1年半、新しく永井直敬が赤穂藩主として入部してくるまで、赤穂城〈赤穂藩領〉の在番を務めている。
なお、この赤穂城の在番を務めている間の元禄14年6月25日に、赤穂城で在番の指揮をとっていた龍野藩家老の脇坂民部の日記の『赤穂城在番日記』に、「6月25日 昨夜、左次兵衛が乱心にて、貞右衛門を切り殺した。このことを言上するため太郎左衛門を龍野へ遣わした」という記述があるように、赤穂城にて在番していた家臣の左次兵衛が乱心して同僚の貞右衛門を斬り殺すという事件が起こっている〈脇坂赤穂事件〉。同日記に「老中・阿部正武へ明後日早飛脚にて大坂を経由して江戸へ遣わす予定」と書かれている。
永井直敬は、江戸時代中期の譜代大名。下野国烏山藩主、播磨国赤穂藩主、信濃国飯山藩主、武蔵国岩槻藩初代藩主。尚庸系永井家2代。元禄14年9月1日、浅野長矩が改易され、空いた播磨赤穂藩主となり3,000石加増され3万3000石となった。しかし直敬は寺社奉行として幕政に参与していたことから、藩政は家臣団によって行なわれた。
赤穂藩の先代藩主にあたる浅野長矩の母方の叔父・内藤忠勝もまた長矩と同じく刃傷沙汰を起こして切腹しているが、この時内藤に刺殺された被害者である丹後国宮津藩2代藩主・永井尚長は直敬の従兄である。
内藤忠勝は、志摩鳥羽藩の第3代藩主。第2代藩主内藤忠政の次男。延宝8年、第4代将軍・徳川家綱の77日法要に際し、芝増上寺参詣口門の警備を命ぜられた。普段から忠勝と仲の悪かった永井尚長は出口勝手門の警備を命ぜられていたが、尚長は忠勝より上席にあるため忠勝を侮り、老中から受けた翌日の指示を記した奉書すら忠勝に見せず立ち去ろうとした。忠勝は奉書を見せるように求めたが、尚長は無視したため、忠勝はこれを恨んで脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、尚長が前のめりに転んだところを刺殺した〈芝増上寺の刃傷事件〉。
