序文・八百屋お七
堀口尚次
丙午(ひのえうま)は、干支の1つ。干支の組み合わせの43番目である。
「丙午年の生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信がある。これは、江戸時代の初期の「丙午の年には火災が多い」という迷信が、八百屋お七が丙午の生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる。
江戸時代には人の年齢はすべて数え年であり、もしも八百屋お七が寛文6年の丙午生まれならば、放火し火あぶりにされた天和3年には18歳になる計算となるが、井原西鶴などの各種の伝記では16歳となっている。しかし、浄瑠璃作家紀海音が浄瑠璃「八百やお七」でお七を丙午生まれとし、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また馬場文耕はその著作『近世江都著聞集』で谷中感応寺にお七が延宝4年に掛けた額が11歳としたことが、生年を寛文6年とする根拠となった。紀海音は演劇界に強い影響力を持ち、文耕の近世江都著聞集も現代では否定されているものの長く実説〈実話〉とされてきた物語で有り、お七の丙午説はこのあたりから生じていると考えられている。
丙午が凶歳とする俗説は中国にも存在するが、女性に対する迷信ではなく、日本特有のものであるとされている。中国では北宋の時代の末から、この年には火災が多いと信じられ、丙午を凶歳とする説が広まっており、これが日本にも伝わり、江戸時代には下級の宗教者の手により村々に広まる間に、丙午の女は夫を食い殺すのだという俗説が生じた。
明治時代以降もこの迷信は続き、明治39年の丙午では、前年より出生数が約4%減少した。当時の新聞には元日に産まれた女児の将来を案じる記事があるほか、生まれた女児の出生届を前後の年にずらして届け出ることもあったという。
この迷信は昭和になっても依然根強く、昭和40年の証券恐慌の影響もあり、昭和41年の出生率は前年に比べて25%下がった。子供をもうけるのを避けたり妊娠中絶を行ったりした夫婦が地方や農村部を中心に多く、出生数は136万974人と他の年に比べて極端に少なくなった。
【私見】2026年がこの丙午年になる。まさか令和の時代までこの迷信が信奉されるとは思わないが、少子化対策特命大臣も気にはかけているのだろうか。
