序文・空爆の鬼
堀口尚次
カーチス・エマーソン・ルメイ〈1906年 - 1990年〉は、アメリカ合衆国の陸軍軍人、空軍軍人。最終階級は空軍大将。
第二次世界大戦中は第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に赴任し、東京大空襲を指揮。1957年7月から1965年2月まで第5代空軍参謀総長を務め、在任中はキューバ危機の間にキューバのミサイルサイトの爆撃を呼びかけ、ベトナム戦争の間に持続的な北ベトナム爆撃キャンペーンを求めた。
ドイツ本土への爆撃に赴く搭乗員に対し「君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供の上に崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ3歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたいのなら、そんなものは忘れることだ」と言い聞かせたこともある。
東京の空襲に成功すると、3月10日にアーノルド〈司令官〉は「おめでとう。この任務で君の部下はどんなことでもやってのける度胸があることを証明した」とメッセージを送る。またルメイに「空軍は太平洋戦争に主要な貢献をなしうる機会を手にした」と賛辞を送った。戦後のルメイは「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女・子供を殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することは〈中略〉ふざけるな」と語った。
焦土作戦は東京・大阪・名古屋などの大都市を焼き払った後は、富山市・郡山市などの地方の中小都市も対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された。
戦後のルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについて大して悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた。また自著で「焼夷弾空襲での民間人の死傷者を思うと、私は幸せな気分にはなれなかったが、とりわけ心配していた訳でも無かった。私の決心を何ら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人―民間人と軍人の両方―を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ」と述べている。
1960年から本格化したベトナム戦争では空軍参謀総長の任にあり、「〈北〉ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語して北爆を推進した。リンドン・B・ジョンソン政権下で1965年2月7日から北爆が開始された。
1962年10月のキューバ危機の勃発時にルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると確信し、キューバ空爆をケネディ大統領に提案したが却下された。ソ連はキューバ危機の時点で既にキューバに核ミサイル数十基を配備済みであり、この提案は第三次世界大戦を招きかねないものであった。
1964年に全米航空協会よりコリアー・トロフィーを受賞。同年12月7日には日本に返還されたばかりの入間基地〈旧ジョンソン基地〉で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対して批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者もいる。当時は日本社会党・原水爆禁止団体・被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。
国会でも叙勲に対して疑問視する声があった。東京大空襲や原爆から叙勲は不適切ではないかという質問に佐藤首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの。」と答え、防衛庁長官・小泉〈小泉元首相の父〉は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査でも当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである。」と説明しており、佐藤もそれらを理由に決定を変える意思は無いと表明した。
【私見】ルメイは、死刑執行人=刑務官と同じだと思う。命令に忠実な公務員の立場だ。但し、原爆を投下したエノラゲイの乗組員や、ベトナム戦争で徴兵された若い戦闘員の中に精神に支障をきたす者が少なからずいたことの事実は、重く受け止める必要がある。罪を憎んで人を憎まず。
