ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1592話 ベ平連

序文・脱走兵支援事業

                               堀口尚次

 

 ベトナムに平和を!市民連合〈略称:ベ平連〉は、日本ベトナム戦争反戦及び反米団体。米軍の北爆開始を受け、鶴見俊輔、高畠通敏、小田実らによって1965年4月24日に結成された。運動団体としての規約や会員名簿はなく、何らかの形で運動に参加した人々や団体を「ベ平連」と呼んだ。ソ連崩壊後に公開された機密文書により、KGB経由でソ連から資金・支援を受けて脱走兵支援事業を行っていたと判明した

 昭和35年6月4日、思想の科学研究会メンバーの小林トミと映画助監督の不破三雄は安保改定阻止に向け、「誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいり下さい」と書いた横幕を後ろ向きに掲げてデモを行った。解散する頃には300人以上にふくれ上がり、解散後に鶴見俊輔や高畠通敏らと合流し、デモを再開した。反響が大きかったことから「声なき声の会」が発足し、杉並区の高畠の自宅に事務局が置かれた。

 昭和40年2月7日、アメリカ軍南ベトナム空軍は、基地攻撃への反撃などを理由に、北ベトナム南部を爆撃。いわゆる「北爆」が開始されると、その直後からニューヨーク、ジャカルタ、パリなど各地で抗議行動が始まった。一般市民の死者が増えたことが報じられ、昭和40年3月、文藝春秋の画廊で富士正晴の絵の展覧会が1週間開かれた。貝塚茂樹桑原武夫と共に発起人を務めた鶴見はその頃、年の半分近くを東京で暮らしていたことから、期間中毎日受付にいた。その最終日、「声なき声の会」事務局長の高畠が訪れ、「北爆に対し無党派の市民として抗議したいが、『声なき声の会』では小さすぎる。政党の指令を受けないサークルの呼びかけで、ベトナム戦争を支援する日本政府に抗議するデモをやろう」と鶴見に働きかけた。鶴見は当時西宮市にいた小田実を誘った。高畠、鶴見、小田は東京新橋のフルーツパーラーに落ち合い、新しい団体の素案を練った。

 同年4月3日、「声なき声の会」「日本戦没学生記念会わだつみ会〉」「キリスト教平和の会」など10団体が本郷の学士会館に集まり、 同月24日に行う最初の反戦デモについて話し合った。4月15日、小田ら21人は連名で24日のデモの告知を行った。同年4月24日、「ベトナムに平和を!」のスローガンの下、東京都千代田区の清水谷公園から新橋まで市民1500人がデモ行進した。そしてこの日、「声なき声の会」を母体に、小田を代表として「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」が正式に発足した。「ベ平連」という略称は高畠が考えた。結成時の最初のデモに寄せて、小田は呼びかけ文に次のように記した。本でも反戦運動が始まった。

 同年、本業の映画プロデュースに専念することとなった久保圭之介に代わり、日本共産党を除名された吉川勇一が事務局長になった。吉川と同じく共産党と対立のち離脱したマルクス主義新左翼党派「共労党〈共産主義労働者党〉」の面々も合流していた。その他無党派反戦運動を旗印に、「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則で、労働組合学生運動団体などの様々な左翼市民団体やそれを支持する学生、社会人、主婦、右翼団体玄洋社など非左派も運動に参加した。「黙れ事件」で有名な元陸軍省軍務局長の佐藤賢了も反米の立場からベ平連討論集会に参加している。その結果「ベトナムに平和を!」に共鳴する人々の集まりを、小田はのちに「マジメ集団」「政治集団」「インチキ市民」でつながった運動、と呼んだ。

 1966年10月16日に名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に改称。

 1971年以降は三菱グループ東芝などの南ベトナムへの進出企業、日立などの防衛産業への抗議活動、あるいは成田空港建設反対の三里塚闘争といった、ベトナム戦争の周辺闘争を展開した。新左翼メンバー間の内ゲバにも手を焼き、のちに東アジア反日武装戦線に名を連ねる片岡利明らも活動に加わった。

 昭和48年1月27日に南ベトナム北ベトナムアメリカなどの間でパリ協定が調印されて和平が成立したことを受け、当時の市民運動の関心が反公害・反開発などのテーマに変質したことを受け存在意義を失うこととなった。

 昭和49年1月26日、解散集会を共立講堂で開いた。600名ほどが参加し、吉川勇一、武藤一羊、小中陽太郎室謙二、福富節男、鶴見俊輔らが講師を務めた。同月27日、水谷橋公園から日比谷公園まで200名あまりでデモ行進した。このデモをもってすべての活動を終了した。その後も、かつての主要メンバーの間で中国における文化大革命カンボジアポル・ポト政権についての見解が分裂することとなった。